Cntents 10-Supplement <2006/03/01>

リーゼ・マイトナー/Lise Meitner


ドイツの原子力物語 幕開けから世紀をこえて

外林 秀人 外山 茂樹 訳編著 

 <附 録> 平和への願いを込めて

附録@ ベルリンに三つのヒロシマ

 この本の原著の題名は「ダーレムから広島」である。ダーレムはこの物語で冒頭を飾っているように、核分裂反応が発見された研究所が所在するベルリン市にある。そのベルリンに「ヒロシマ通り」と「広島橋」があることはすでに本文中で記した。また「世界平和の鐘」というものがあり、この機会にその由来を紹介しよう。

 

 「ヒロシマ通り」

 ドイツの首都ベルリンの中央部、ブランデンブルグ門から西に広がるティーアガルテンの森の南側を通る道の途中から南へ、ランドベーア運河に至る幅一七メートル長さ三五〇メートルの立派な道が「ヒロシマ通り」と呼ばれている。ローマ字で書かれた通り名の上に、少し小さく「一九四五年八月六日、最初の原爆が投下された日本の都市」と説明書きがある。戦前この通りは「シュペー伯爵通り」と呼ばれ、ティーアガルテン寄りの両側に日本大使館とイタリア大使館が構えている。シュペー伯爵とは第一次世界大戦当時のドイツ海軍大将の名前である。

 

 「広島橋」

 「広島橋」はヒロシマ通りの南端からランドベーア運河に架かっている幅三メートル長さ四   二メートルの歩行者と自転車専用の細い橋である。この橋自体は一九八七年、ベルリンの壁の崩壊二年前に架けられ、通りと同じように初めはシュペー伯爵橋と命名された。しかし、一九八〇年代半ば、特に社民党系を中心とする平和グループが戦争、軍人およびナチスに関係する通りの名前を廃棄改名すべしという運動が起こり、一九八九年六月「ヒロシマ通り」と「広島橋」が誕生した。これには区会議員ハインツ・シュミット氏の尽力が大きいと言われている。

 一九九〇年十月二七日、日独友好の有志や要人を集めて、黄色く色づいたマロニエの木の下で改名式典が行われた。橋の名前を示す銘板は当時広島市長の荒木武氏の揮毫によるものである。これはタイミングとして「ベルリンの壁の崩壊」、「ビロード革命」、「無血のドイツ統一(一九九〇年十月三日)」と呼ばれる一連の歴史的出来事と重ね合わせられた。多くの人は、この改名はそれらを記念してベルリンがプレゼントしたものだと受け止めた。それにつけても、平和の象徴として原爆で最初の犠牲となった広島の名を冠した通りと橋が、ベルリンに誕生したことはそれなりに重要な意味を持つものである。もう一つの被爆都市長崎の名を冠した通りの計画もあったが、これについては当分実現の見通しはたっていない。

 

◇注 本稿はこの問題に尽力された、ベルリン日独センター文化部長生田千秋氏の「広島日独協会会報」(第五一巻(平成一六年三月))から主に引用した。

 

 「世界平和の鐘」

 ベルリンの中心部フリードリヒスハーン区(旧東ベルリン)の人民公園の池の側に、釣鐘堂があり、日本で創立された世界平和の鐘協会 (World Peace Bell Association) から寄贈の世界平和の鐘 が懸かっている。この釣鐘堂の管理、補修はベルリン市が責任を持っており日本国民との親睦の象徴として重要な施設の一つとなっている。毎年八月六日、広島に原爆投下された日には、日独平和フォーラム、IPPNW(International Physicians for the Prevention of Nuclear War核戦争防止国際医師団)、一般の人々が集まり、鐘を鳴らし、平和の風船をとばし、核廃絶、世界平和を祈念している。

 

◇注 世界平和の鐘は戦争の悲惨さ、核廃絶、平和の尊さを訴えて、国連加盟国六五ヶ国のコイン、メダルを収集し、一九五二年に銅と合金して鋳造して、一九五四年に。ニューヨーク国連本部に寄贈したのが始まりである。二〇〇四年現在世界中に四〇の平和の鐘がありベルリンはその一つである。

 

 附録A マイトナー生誕一二五周年記念行事資料より

 

 リーゼ・マイトナー生誕一二五周年を記念して、ベルリンの国立図書館で伝記的展示会が二〇〇三年一一月七日から一二月一三日の期間開催された。開会式にゲッチンゲン科学アカデミー、スウェーデン王立科学アカデミー、大英帝国王立協会、オーストリア科学アカデミーなどから代表者が出席しその業績を讃えた。この中から、この物語の本文中で取り上げることができなかった話題を附録としてここに紹介する。

 

◇注 マイトナーは一九二六年にゲッチンゲン科学アカデミー会員に、一九四五年に王立スウェーデン科学アカデミーの会員に、一九五五年に大英帝国の王立協会の会員に、一九四八年にオーストリア科学アカデミーの会員に選出された最初の女性である。

 

 「講演 (質量とエネルギーの相関関係について)」

 リーゼ・マイトナーは一九三一年七月一日ベルリンのカイザー・ウィルヘルム協会第二〇回総会で表題のような題目の講演をしている。そこでマイトナー自身の電子線や陽子線に関する実験から、エネルギーは質量に、そして質量はエネルギーに変換でき、すなわち質量はエネルギーの単なる特殊な形態であるという認識を述べている。一九三八年一二月の核分裂反応発見の際、それに伴って莫大なエネルギーを放出することは、自らの体験から容易に推定できたであろう。この講演はドイツ工学協会の雑誌(Zeitschrift des Vereins Deutscher Ingenieure VDI Vol.75,Nr.31,977(1931))に掲載されている。

 

 「フンボルト大学の物理研究所リーゼ・マイトナー・ハウス」

 ベルリン南東部トレプトー地区にある国鉄アードラスホーフ駅の近くに七六ヘクタールほどの土地がある。東西ドイツ統一前の一九八九年までそこに東ドイツ学術アカデミーの施設があって、旧東ドイツ最大の自然科学技術研究のコンプレクッスとなっていた。それに近接して約四〇〇ヘクタールのヨハネスタール飛行場があり、一九〇九年に第一回飛行週間が催されたことでよく知られている。統一後のベルリン市は一九九二年九月の議会で、これらの土地を再開発して一部に科学経済パークを設立することを決議した。

 二〇〇四年現在で、ドイツ大気圏・宇宙航空研究所、シンクロトロンBESSYU等の一六の大型研究所が稼働している。ベンチャー技術指向の会社設立や誘致にも意欲的で、経済と科学が車の両輪の関係で発展することを目指している。

 フンボルト大学の自然科学関係の研究所は町の中心部にあり、古くて使い勝手が悪い歴史的建造物になってしまっているので、これらをアードラスホーフに集結し統合することになった。二〇〇三年六月には、この土地に物理研究所が開所し、「リーゼ・マイトナー・ハウス」と名付けられた。二〇〇四年三月現在、化学、地理学、情報、数学、物理、心理学の六つの研究所がある。

 

 「アメリカ旅行」

 アメリカの女性ジャーナリストたちが、マイトナーを「一九四六年の女性」に選んだ。その時のマイトナーのアメリカの印象は今日これを引用に値するものがある。一九四六年四月一九日付けの手紙で次のように書いており、二一世紀の今日のアメリカを奇しくも予言している。 「一般的に言って、アメリカ人にはどこかとても子供っぽいところがあると思います。それは魅力的でもありますが、同時にしばしば表面的ということと紙一重です。また、わたしはこの国の政治的な問題の扱われ方にかなり不安を感じています。それはこの国は今にも軍国主義になるのではないかという恐れです。ソ連に対する不安と、原子爆弾を所有しているために軍事的にはるかに進んでいるという優越感とが人々を混乱させているのです。アメリカの科学者たちはこのような考え方に対して真剣に戦ってはいますが、なんといっても軍の方がずっと強力なのです。」

 

 附録B マイトナーの講演「原子エネルギーと平和」

 

 一九五三年三月三〇日にウィーンでオーストリア・ユネスコ展示会が開催され、ここでリーゼ・マイトナーとオット・ハーンがそろって「原子力エネルギー」というテーマで講演をした。二人の講演を司会したオーストリア科学アカデミー核物理研究所長ボルタ・カルリク博士は核分裂反応を発見したときの状況や二人の役割を公平に要領よく語っている。ハーンの講演は放射線に関する専門的なものであった。マイトナーはこれまで、核武装反対や平和運動などの声明文の署名に加わらず冷静に控えめに眺めていた。その彼女がこの講演では科学者として透徹した視点から科学の効用を論述しており興味深いものである。この物語の附録として、ここでは司会者のカルリクとマイトナーの講演記録を紹介する。

 

 「ボルタ・カルリクの前座講演」

 オット・ハーン博士とリーゼ・マイトナー博士は一九〇八年から一九三八年の三〇年間にわたり主としてベルリン市ダーレムのカイザー・ウィルヘルム化学研究所で共に放射線の研究をして輝かしい業績を挙げた。それは天才的化学者と、研ぎ澄まされた頭脳で問題を深く掘り下げて思考する物理学者との素晴らしい組み合わせであった。共同研究の最後の年(一九三八年頃)は、ウランに中性子を照射するとどのような変化が起こるかの問題に取り組んでいた。しかしリーゼ・マイトナー博士はユダヤ人ゆえに、ナチス体制下で研究の途中一九三八年七月ひそかにストックホルムへ亡命しなければならなかった。オット・ハーン博士は引き続き実験的研究を進めて、その年の一二月に原子エネルギーの実用的利用の基礎になるウラン核分裂を発見した。この発見に対し科学的業績では最高の栄誉であるノーベル化学賞がハーン博士に与えられた。戦争中ハーン博士は核分裂発見から派生する科学的な基礎研究に従事した。戦争が終わった一九四五年以降、ハーン博士は重い責任感からこれまでの科学者としての仕事を犠牲にして、ドイツにとって苦難の時代に全精力をカイザー・ウィルヘルム協会の再建に力を尽くし、さらに科学振興を旗印にその後継組織であるマックス・プランク協会への再編成に取り組んだ。彼の精力的な実行力、比類のない思慮分別、高度の道徳的名声は、協会を再び今日科学技術の分野で国際的に高く評価されるものにした。 

 これから行われる二人の講演は、全く異なった立場よりなされているが、根本のところは密接に関連している。オット・ハーン博士は一般的に解りやすく原子エネルギーの有効利用の基礎を説明し、平和的利用の可能性を紹介している。リーゼ・マイトナー博士はこのテーマから派生する倫理の問題について考察した。原子力研究者の仕事は人類に災厄をもたらすといった見解に対しては、リーゼ・マイトナー博士はそうではなくて科学的知識は、例えば真理を愛する心は他人の業績も認め合い、これを賛美し畏敬の念を抱くといった倫理的な情操を伴うものであると説明した。人類が原子エネルギーの発見によって直面している当惑は、この発見が他の科学的知識と違った特殊のものというのでは決してないのである。もし科学が災いをもたらすというのならば、それはむしろ今日の人間の道徳上の情操が歪曲しているためである。科学から離脱するのでなく、帰依することが人間性を高める道であり、それによって自縛から脱却することが出来るであろうと述べている。

 

 「リーゼ・マイトナーの講演」

 *プロメテウスの火と原子エネルギー

 科学の知識は、人類にとって有害であり、宗教的にも道義的にも罪行であるとするとの考え方は、その昔プロメテウスの物語にも書かれている。プロメテウスが神の火を奪ったことが罪であるとされている。文化の発生に関する神話で、プラトンはこれを二段階に区分している。最初の段階は技術の文明であり、プロメテウスがゼウスより盗み、人間にもたらした火の援助によって人間が達成した文明である。もしゼウスが人類に正義と秩序を授ければ、第二の段階であるさらに高度の文明に到達するであろう。プラトンは教育によって高度の人間を育成することができると言っている。しかし、ゼウスが正義と秩序を授けなければ、人類は火を使って互いに殺し合いの戦争を起こしてしまうだろう。このように自然科学や技術発展が本当に幸福をもたらすかどうかという疑問は、まさに古くて新しい問題である。古代ギリシア人はすでに科学の進歩の二面性をよく理解していた。最近この問題が非常に広い分野で注目を集めているのが、原子核に含まれているエネルギーの利用である。残念ながら最初に実現したのが爆弾という大量殺戮の道具であった。自然を人間が支配したとき起きる危険の瞬間を、我々は目の当たりに見せつけられた。原子エネルギーの支配による破滅的な結末と平和利用への期待についてはすでに多くの人によって報告されており、あらためてここで申し上げるような見識を私は持ち合わせていない。ここでは一般に、科学的発見とそれに関連した技術の発展は人類にどのような利益をまたはどのような害をもたらすかについて多くの例を紹介しよう。

 *科学と技術の恩恵

 原理的に科学は地球上の多くの民族がお互いに理解するために、もっともよい手段ではないでしょうか。何故なら科学はすべての人間に多くの共通点があるからです。科学的なものの見方は、むかしから暮らしの中で受け継がれたもので、特別なものではない。例えば円を三六〇度に分割することは、恐らく太陽暦の三六〇日からきているもので、バビロニアから生まれた。われわれの計算システムは一〇の累乗で、殆どすべての民族で使用されているが、恐らく一〇の数は指の数によるものであらう。一週間を七日に分割するのは、バビロン人が七つの星 (太陽、月、火星、水星、木星、金星、土星)を名付けたことによっており、今日でも多くの人々がこれに従って暮らしている。

 技術的発見は、人類の日常生活に便益をもたらす反面、必ず危険な影が潜んでいるのである。機械が発達して能率よく物を作り値段がどんどん安くなれば、多くの人がそれを買って恩恵を受けることができる。衛生面でも生活が改善され、飲み水や電気も便利に使えるようになってきている。しかし機械時代の初めはどうであったか。よく引き合いに出されるのが繊維工業である。たった一つの蒸気機関で同時に沢山の織機を動かせるようになったため、経験を積んだ織工は失業し、その代わり子供を労働力として雇うところが増え社会問題となった。一八四〇年には、繊維業界で際立って子供の死亡率が高くなり、死亡者一〇〇人中実に六〇人が二〇歳以下の未成年であった。このためやがて子供の労働を規制する法律が出来て、不幸な状態が排除された。これはプラトンの文化の発生ついての神話と深い関わりがある例と言えよう。しかし今いったように、技術的発見は経済や社会と複雑に絡み合っていることを常に念頭におかなければならない。

 技術の進歩は科学の発展の成果によることに異論はないが、ただ単に知識欲を満たすだけの研究の価値に疑問を持つ人があるだろう。近代の自然科学の素晴らしい発展は、それ自体人類共同体に困難と危険を持ち込んだことは疑いないところである。X線の発見を一つの例として取り上げよう。それは全く超俗的にただ知識欲に駆られた人の、純粋な真理の探求のための科学的研究で発見されたものである。それが今日では結核や骨折の診断、体内の異物の探索など多くの病気の診察に欠かせない道具となっている。さらに金属やゴム、セルロースのような物質の欠陥を見つける道具として広く使われている。化学分析でもX線は大活躍している。X線はさらに放射能の発見をもたらし、それによって物質の本質を解明するという大発展への出発点となった。それは近代原子物理、宇宙の解明へと発展した。

 いうまでもなくダイナマイトの発明も同じである。これなしではエジプトのアスワンのダム建設や、堅い花こう岩の山岳地帯にトンネルを穿ち鉄道を通すことは出来ないであろう。石切り場や炭鉱の仕事でもダイナマイトは欠かせない。しかし、同時にその破壊力は戦争とは切っても切れない糧となる。

 *科学と技術は両輪―熱力学そして量子論

 私はこのお話で意識的に、科学や技術のいろいろな分野から引用例を選んだ。何故かというと人類は今や原子エネルギーの利用の出発点に立って期待と不安に当惑しているが、本質的にはすべての科学の進歩に対する戸惑いと共通のものと思えるからである。機械化は人を怠惰にしモラルを萎縮させるという意見もある。この主張は理解できるところもあるが、しかしそれを避けることができないものだろうか。もちろん科学と技術は人類共同体に文化の様式や価値観の形成にあたって相互作用がある。モラルと社会的評価は一つの民族の生き方と密接に関連しており、この生き方は科学と技術の水準に大幅に依存している。しかしそれらの発展は止めたり遅らせることが出来るであろうか。私は思うにそれは完全には不可能であろう。自然科学の研究と発見のプロセスはそれぞれ独立した道を進むだろう。そして技術と研究の相互関係も同じことである。技術は研究結果の実用的応用だけに利用されることは決してない。当然のこととして、古いものを改良し新しい研究装置を試作し新しい実験方法を開発した。

 このような例は、過去三〇年で多く提示できる。興味ある例の一つとして、科学の原理としてある熱力学、エネルギーの法則の生い立ちである。それは蒸気機関の出現で、機械的仕事がどのぐらい熱に変換されるかという全く経済的観点からの問題提起である。フランスの物理学者サディ・カルノーはこの疑問を純粋に科学的に取り上げ、いかなる物理条件下で熱が仕事に変換するかを研究した。こうして築かれた近代熱力学の基礎によって、効率のよい熱機関を作り出す道を開いた。

 もう一つの例として量子論を採り上げる。白熱電球を作るためには、いろいろな温度の物体から発する光の強度と波長の関係を知ることが大切であった。この問題は一九世紀の終わり頃、純粋に科学的興味から研究がなされていた。しかし測定を正確に行うほどに、当時支配していた理論と一致しないことが分かった。そこでプランクが量子という考え方を提案した。それはこれまで物理の基本概念を完全に塗り替えるもので、驚異と感謝の気持ちで見ることができる。

 *真理を愛する心は賛美の情操を培い平和共存の道を拓く

 純粋科学と応用科学の相互関係に余計な介入を持ち込もうとするのは、全く見通しの利かない企業家のすることであろう。もしそれが可能であっても、望むところであろうか。科学的発明は人間に驚嘆と感動を与え、自然現象の法則が科学者への深い喜びと畏敬の念を贈り物として授けている。敬愛するオーストリアの物理学者ルードウィッヒ・ボルツマンはグスタフ・キルホーフが亡くなったときに、理論科学を賛美しその崇高さは交響楽の音楽と類似しており、キルホーフは音の哲学者ベートーベンと肩を並べるものだと追悼の辞を贈っている。

 もちろん科学はわれわれの行動を拘束するものではない。しかしそれは人間社会においてその行動を倫理的規範に適合させるのは大切なことである。技術の進歩で人間が解決できない困難に立ち向かうならば、科学は「悪魔」のためでなく、ギリシア人が達成しようと努力した「高度の人間性」に到達することを目指さねばならない。一九世紀がそうであったように、人類を無理やりに引きさくような国粋主義、人種闘争、階級闘争を抑え切れないこともあった。これはただ今日の世界での人類生活の矛盾を示す例の一つである。これを克服するためには矛盾をハッキリと自覚すべきである。世界の国々が相互に依存し合っていることを、一つの簡単な方程式で示すことは出来ないだろう。お互いに好意を持つこと、他の国のそれぞれの伝統や文化を尊重しながら科学を普遍化することが、人類の繁栄と平和共存の道を開くであろう。科学者はそれに手を貸すことができるであろう。第一次世界大戦後には、かって互いに戦争をした国の科学者達が再び友好関係を作るように努めたものである。それは国境を越えた崇高な使命をもった共同作業といえるであろう。

 

 附録C シュトラスマンの出版物より

 

 フリッツ・シュトラスマンは一九七八年に「一九三八年一二月ベルリンでの核分裂」という本を自費出版している。核分裂という現象を世界で始めて自らの目で認知した彼自身が、当時の状況を次のように書き残している。

 「その頃研究所ではオット・ハーン所長とリーゼ・マイトナー博士は全く対等な立場で研究が進められていた。・・・ 核分裂反応と思われる現象を発見したとき、マイトナー博士はユダヤ人追放という悲劇的な情勢に巻き込まれて、そこに居合わすことができなかった。しかし元々この研究は彼女の提案によって一九三四年から始められたもので、その頃から私(シュトラスマン)がチームに加えられた。ハーン所長は有機放射線化学の大御所的存在であったが、私はそこで化学分析の専門家としての役割を果たしていた。私は確信しているが、マイトナー博士はそこでは実質的な指導者であった。一九三八年一二月一八日にベルリンで核分裂の現象が発見されたとき、マイトナー博士はその四ヶ月まえに亡命してそこに居合わせなかったとはいえ、これは我々三人の共同研究以外のなにものでもないのである。・・・一九六六年に三人が共同でアメリカ大統領が原子分野の科学技術者を顕賞する原子力委員会のエンリコ・フェルミ賞を受賞(一九六六年)しているのは、この事実を認めているからに他ならない。」あれからもう四〇年が経ったが、私は次のような思想を持ち続けている。

 「科学的発見はそれ自体は善でも悪でもない。人間がそれからなにを引き出すかが問題で、善にも悪にもなる。われわれは原爆のような間違った道を、理性と正義をもって回避されることを願ってやまない。今更私は次の古い諺を噛みしめるのである。―お前の考えていることはもう遅すぎたよ。」

 

 附録D ドイツのエネルギー政策としての再生可能エネルギー利用

 

 原子力発電廃絶を宣言した原子力法律が二〇〇二年二月に連邦参議院を最終的に通過し、二〇〇二年秋のドイツ総選挙で社会民主同盟と緑の党の連立政府が再び成立し、原子力放棄が現実のものとなった。原子力利用以前のエネルギーの主役は化石燃料であったが、地球温暖化に影響を及ぼす二酸化炭素の排出を伴い、埋蔵量も有限である。

 このためドイツでは再生可能エネルギー法(Erneuerbare-Energie-Gesetz)を制定し、電力供給者に、太陽、水力、風力、地熱、生物資源からの電力を優先的に取り上げるように義務づけ、それに対し一定の補助金を支給することを定めた。これによって投資家は電力を二〇年にわたり固定した値段で売ることが出来、銀行は必要な貸付金を提供出来る。その結果として新しい設備を設置するブームが起きており、この法律は国際的に模範となり、成功した政策となっている。ドイツ環境省は二〇〇三年六月付けで報告書を提出しているので、その要点を拾い出してみよう。 まず風力については、風車を製造している企業で現在四万人が働いている。二〇〇二年末にドイツでは一万三六〇〇基の風車があり、それは全世界に存在する三分の一に当たる。その電力は約一万二千メガワットで、大気に放出する二酸化炭素の約一三〇〇万トンを節約したことになる。風車を地上に作ると土地がいるので、海上に立地するように勧められている。これが実現すると二〇二五年から二〇三〇年に二万から二万五千メガワットの電力が得られ、海上の風車のみから現在ドイツの電気使用量の一五%を供給することになる。

 この法律で一九九八年頃すっかり打ちのめされていた太陽電池生産も活気がつき、ブームが起きた。二〇〇三年末までに太陽電池で三〇〇メガワットの出力を可能にする設備が設置される予定である。すなわち屋上太陽電池一〇万戸計画の目標である。

 再生可能エネルギー法は、いわゆる生物資源から、すなわち木、植物、動物の排泄物からの電気生産も奨励している。今日ドイツでは、再生エネルギーは全エネルギーの二・九%を占めている。ドイツ政府の目的は二〇一〇年までに、再生エネルギーの貢献を倍にして四・二%にすることを目標にしている。

 

◇注 二〇〇四年六月 ボンで再生可能エネルギー国際会議が開催され、世界各国から三千人の参加者があった。会議後の記者会見で、共同議長を務めたドイツのビチョレクツオイル経済協力開発相は行動計画の実現に向けた各国の努力をたたえるとともに、中国が二〇一〇年までに再生可能エネルギーの比率を全設備容量の一〇%に引き上げる数値目標を掲げたことを高く評価した。

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