resources.1-Serve21-03

外山茂樹/地球を救う“かけ声”たちを総点検


§3「持続可能」というつじつま合わせ

(3.1)人間生活を持続させるための「資源」とは

天然資源だけが資源ではない

―日本はもったいなおほど資源に恵まれている―

現在の日本社会は豊かさを満喫している。では「今のような暮らしが何年できると思うか」と尋ねると、大多数の人があと数年と思っているという。それで「持続可能」とか「持続的発展」という「かけ声」が高まっている。分かっているつもりで分からない、本当のところはどうなんだろうか。心配の1つは資源を使い過ぎているようであるから、これがいつまでもつかということである。それで、資源のことを少し勉強してみよう。

資源も広くとらえると、実はいろいろな定義がある。日本政府の資源調査会の分類と、アメリカの「国家資源委員会」の分類をまとめて表に示している。

資源の定義と分類
<資源調査会の分類

【潜在的資源】
1.気候的条件
(降水、光、温度、風、潮流
2.地理的条件(地質、地勢、位置)
3.人間的条件(人口分布と構成、再生能力)

【顕在的資源】
1.天然資源(生物、無生物)
2.文化的資産(住宅、水利施設、工場、ダム)
3.人間資源(労働力、士気)
<米国国家資源問題委員会>

【顕在的資源】
気候・地形

生産技術
制度・組織・文化資産

【欲望の充足に使われる資源】
1.天然資源
2.人口施設
3.人的資源

この中で、天然資源といわれているのが一般的な対象で、アメリカでは「欲望を充足するために消費される資源」項目に入れられているのは、いかにもアメリカらしくて面白い。「もったいない」という心も人的資源の要素である。エントロピーを使って採点すると日本23点、アメリカ19点であった。生活を豊かにする「天然資源」は無くならないように、「持続」させるにはどうすればよいか話し合うためには、制度や資本や技術といった「文化的資源」に分類されている事柄も見逃せない。
それどころか、ここでは重要なカギなのである。

次に、潜在資源というのもいわれてみれば、なるほどと思うものばかりである。「気象条件」である降水量や潮流は、水資源や水産資源に関わる条件である。光、温度、風も、エネルギー資源と関係があろう。例えば、中東の産油国は砂漠が多いけれども、石油が枯渇したときにうまい具合に太陽光発電が有利になれば、光と不毛の地というのは立派なエネルギー資源国として存続できるかも知れない。

「地理的条件」に関しては、日本は大変恵まれた国といえよう。海岸線が長いということは、工場を建てるのに都合がよい。原料や製品の運搬にもよその国を通らず便利であるし、ふんだんに海水が使える。人的資源も含めて広い気持ちで考えれば、日本はもったいないほど資源に恵まれた国ではなかろうか。

天然資源にもいろいろ

資源にもいろいろあるが、普通は単に「資源」といえば天然資源のことである。この天然資源にもまたいろいろあり、「持続的発展」というような言葉に関連して、この頃よく耳にするのは次の2つの言葉であろう。

更新性資源(Renewable resource)・・水、大気、植物、動物など
非更新性資源(Non-renewable resource)・・鉱物資源など
アメリカの国家資源委員会では以前から使われていたものだから、参考までにわかりやすい英語も示した。

更新性資源は水や空気のように生きるためにはなくてはならないものと、農産物や海産物のような生物からなっている。水や空気は自然や人工的にきれいにして何回でも更新できるし、生物は繁殖するから更新できるとされている。しかし、更新性資源といっても今や使いたい放題ではバランスがくずれてしまう。森林破壊の防止、水産資源などを保護しながら持続的開発を行うということが、地球環境経済学という視点からも捉えられている。

一方、非更新性資源は主として地下に埋蔵されており、非再生であるが故に地球にどれだけ埋蔵されているかということは、利用し消費するに当たって重要な情報である。この埋蔵量は金属資源などでは次の4つに分類されている。

確定(Measured resource)
推定(Indicated resource)
予想(Inferred resource)
潜在または可能性(Potential resource)

1950年代の新人へ先輩から

したがって、埋蔵量というとき、このいずれであるかを確認しないと、往々にして錯覚に陥り、詭弁に惑わされることになる。

天然資源で最も注目されている石油の埋蔵量に関しては、確認埋蔵量(Proved reserves)というのがあり、1978年末までの世界におけるそれは、7,001億バーレルであり、56.9%が中東に依存している。それと究極埋蔵量(Ultimate reserves)というのがあり、これには諸説がある。50年前に社会に出た人は、40年すると石油はなくなるから、原子力を勉強するようにと言われたものである。ただ、エネルギー資源に関していえば、これを使い切る前に大気中の二酸化炭素が増加して、地球環境が危機的状況になることが心配されている。これはまさに人間資源や文化的資源がかかわる問題である。

人間活動の許容範囲

生産活動に伴う資源の需要は、初めのうちは図のように天然資源だけで賄うことができた。しかし多くの人達が求めるようになると、天然資源のR1レベルでは需要に応じけれなくなる。そこで代替資源を開発してR2レベルまで押し上げている。

一方、物を作れば生産する段階と、それを使う段階と、捨てる段階と、すべての段階で環境汚染を伴うのである。しかし、環境汚染も、負担が少ないうちは自然が浄化していたのである。土壌はバクテリアによって復元するし、水は流れや波浪で曝気されてきれいになる。空気は風に運ばれ雨に洗われる。そのレベルをQ1とする。これは日本の定義にもアメリカの定義にもある「気候的条件」や「地理的条件」にかかわる事項である。

しかし産業が活発になり、世界総生産額が1兆ドルの水準のときには、Q1の範囲内にあったが、これが3兆ドル、5兆ドルとなるにつれて、とくに生活活動から廃棄されるものによって、閾値Q1を超え、環境破壊が指摘されるようになった。それが1970年代の公害と呼ばれた本格的な環境問題の始まりである。科学技術の発展に大きな夢を託した大阪万博のすぐ後に、皮肉にもその陰りが現れたのである。

人間活動の範囲

自然の浄化能力についてこれまで局所的にしか目が向けられていなかった。川が汚れてきたから、流域の工場に廃水処理設備を図の縦軸で示される資源の需要は、市場経済の動きからどのような数値になっているかすぐ分かる。しかしつけたり、生活用水についても下水処理施設を普及させたりして、人工的にきれいにしていた。あるいは大都市圏や工場地帯の空気が汚れてきたから、廃ガス処理装置を設けようといったような目先のことに追われていた。しかし、ここへきて環境問題は地域の問題ではなく、地球全体の問題となってしまった。それはいつ頃からか。19世紀の科学者もこのことを警告していたが、実質的には科学技術に夢を託した大阪万博から、まだ40年もたっていない。環境問題もにわかに地球全体のことを考えなければならなくなってきた。これは大変なことである。危機感を煽るような情報がさかんに報道され、まさにお尻に火がついた感がある。しかし、こういう時こそまず落ち着いて、もう一度分かりきったことを総点検する必要がある。次にその辺りを振り返ってみよう。

(3.2)「掟」における「煩悩と戒律」

化学工程設計における「クソの始末」という「掟」

物造りの工程を設計するのに基本的な3つの関門について§2で説明したが、その他に今や環境汚染のことも必ず考えなければならない。昔はそんなことは考えなくてもよかったと思うかもしれないが、決してそうではなかった。化学薬品や食品を造る工場を建てるときには、「クソ」の始末という「掟」があった。言葉がきたなくて戸惑いもあるが、これには訳がある。日本古来の職人かたぎである。試験管やビーカーを扱う化学実験室にはそれなりに作法のようなものができていて、事故のないよう緊張感がみなぎっており、そして終わりにはキチンと器具を片付けるという掟がある。茶の湯の作法とも対比できるが、大工の丁稚が道具を跨ぐと棟梁が金槌で叩いて諌めたというし、厳しい農作業の後で農機具をきれいに洗うことを、姑が嫁を仕付ける場面などドラマの定番となっている。

武士道と六波羅蜜

物造りの工程設計で「クソの始末」というのはこのような背景にある。西洋の化学工学におけるキルクブライドの考えのほかに、「立つ鳥跡を濁さず」というような武士道的要素のある徳目として伝えられていたのである。武士道には忠、義、誉、勇、礼、仁という徳目があり、仏教では布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という六波羅密の徳がよく知られている。掟を司る人にはそれなりの徳が求められた。茶の湯のあるじは侘び、寂び、雅を布施し、弟子を厳しく鍛える棟梁も、弟子に粗相があったときには、義をもって自ら責任を負うのである。

食品の表示などの偽りが発覚するとまず隠蔽し、それから末端のせいにし、最後に隠しきれなくなったトップが深々とテレビの前で頭をさげるという光景がしばしば見られるのは情けないことである。世の中には「法律」というものができて、罪を犯した者は罰すればそれで終わりということならば、法律を犯さずに市場競争に勝てば、ウィナー・テイクス・オール(まる取り)もまかり通ってしまっている。大量生産・大量消費という風潮は、こうした「文明」の跋扈によって生まれたといえよう。

いまさらここで「掟」という言葉を掘り出したのは、物質「文明」一辺倒の時代に、「心」の問題すなわち「文化」を忘れてはならないからである。

イスラムにおける井戸を使う「掟」

講義の後の日本の学生(君)とアラビアの留学生(君)とのフィクション会話。

J:「掟」には「煩悩と戒律」がかかわり、「法律」には「罪と罰」がかかわるという、今日の先生の話は環境問題とどういう関係があるのかよく分からなかったね。工学系の先生が、「掟」と「法律」の違いを勝手に解釈するのも納得がいかないですよ。

M:日本の人はどうしてそんなことにこだわるのかよく分かりませんね。私たちムスリム(回教徒)は「掟」に関しては職業とは全く関係がありません。たとえば、イスラムには砂漠で大切な井戸を使う順序に次のような「掟」があります。

1)井戸を掘った人 (2)旅人 (3)旅人の家畜  (4)その土地の人 (5)その土地の家畜

J:つまりお布施ですね。

M:イスラムの人は「サダカ」と呼んでいます。どの宗教でも同じように有り難い教えがあるのです。物質文明一辺倒の時代だからこそ、「心」の問題を掘り起こす意味で、文明の根源として「掟」を持ち出したのは面白いと思います。

J:イスラム教はキリスト教と同じモーゼの十戒を源にしていると習いましたが、ルネサンスのような変革が起こらなかったから、科学技術を受け入れた現在の物質文明に違和感があるのでしょうか。

M:いずれにしても、20世紀には世界を巻きこんだ大きな戦争が2つもありました。それは植民地解放、資本主義と共産主義による東西対立、貧富の格差による南北問題と世界の情勢は推移してきました。

J:21世紀になると地球環境問題が突きつけられましたね。

M:地球環境に大きく関わっているのは、日本を含めた先進国でしょう。ルネサンスはイギリスに産業革命をもたらし、今日の大量生産・大量消費のという「文明」を生んだのです。そのベースとなる科学技術をすでに享受できる体制を整えた国が先進国と呼ばれているわけです。

J:別に進んでないよね。これから科学技術文明を受け入れようとしている国を発展途上国とよんでいるが、それぞれ尊重すべき文化があるわけだから、文化国というべきでしょう。20世紀の「東西対立」や「南北問題」に次ぐ21世紀の課題として、地球環境は「文明文化問題」が鍵になると思うよ。

アラビアの大学キャンパス

(3.3)「法律」における「罪と罰」

公害問題発生の頃

地球環境問題について、その原因を作った文明と、これを受けとめる文化という話に及んだので、日本はどうであったかという体験から、「持続可能社会」とは何かを考えてみよう。とりあえず、「クソの始末」という掟が伝わっていた時代、1945年までさかのぼるとしよう。太平洋戦争が日本の敗北によって終結した年である。戦争中の日本の産業は、生活に必要とする製品の生産は極度に抑えられ、戦争を支援する体制に傾倒していた。こうした産業施設も大部分は戦争によって破壊され、廃墟と化した。

 国破山河在  城春草木深

という杜甫の詩が切々と共感をよぶ情景であった。

国敗れた山河(徳山海軍燃料廠跡)

それはどこまでも澄みきった空気の向うに見える山なみと、どこまでも透きとおった清流があった。そして誰もが思ったことは戦争はこうこりごりだということと、勝者アメリカの軍事、生活両面における圧倒的な物量の豊かさに目を見張ったことである。

1960年代に入ると安価なエネルギーによって、大量生産、大量消費の時代へと突入していった。この頃の化学技術者たちは設備の大型化と、大量生産システムの計画において重要な役割を果たし、いわゆる黄金時代を体験している。この頃は化学プラントばかりでなく、石油を運ぶタンカーも、発電所もどんどん大型化していった。1970年には大阪で万国博覧会もあり、科学技術の恩恵によるバラ色の未来が謳いあげられた。

終戦のどん底からはい上がった日本は、まずは産業優先の掛け声が高く、遮に無に高度成長へとかき立てられていった。企業においても戦争責任を問われて首脳陣が交代し、思いがけなく昇進した「三等重役」というユーモア小説がヒットした時代であった。若返りのがむしゃらさが、急激な経済成長への推進力となったのである。軍事優先が産業優先におきかわったわけであるが、それによって戦争にゆくわけでもなく、物が豊富になるのだからよいではないかということであった。

昔は、大阪は煙の都と呼ばれそれ繁栄の象徴であった。お月さんを煙たがらせた三池炭鉱の煙突も景気のよいかけ声であった。それがやがて、煙は空気を汚して人の健康を蝕むようになり、廃水で川が汚れて魚が住みつかないようになり、国敗れたときの山河の清らかさは見る見る汚れていった。いわゆる公害問題の発生であった。

動脈と静脈というトータルシステム

今でこそ日本は押しも押されもせぬ科学技術先進国のつもりでいるが、公害問題が表面化した1960年代から70年代といえば、まだまだ産業界は外国から技術を買ってきて物を造っていたのである。天然資源が乏しい日本は、人的資源と海に囲まれた地勢的資源を生かして、造ったものを外国に売らなければ成り立たない。だから外国で買ってもらえるような物を造らねばならない。技術者にとっては相当なプレッシャーであった。敗戦国民というトラウマ(病的劣等感)もあり、少しは勘弁してくれといった甘えから、「クソの始末」への道義感も責任感もおろそかになっていたところもあった。

一方、戦争中のような言論の統制化はなくなって民主国家に生まれ変わり、人々は思うようにものが言える世の中になっていた。そこへ、狭い国土で急激な高度成長が推し進められたのでるから、公害問題に対する告発は日増しに高まっていった。時には徳川幕府以来の農民べっ視、成り上がり産業人のエリート意識という尻尾をつかまれて赤裸々な闘争も各所でみられた。

こうした中で企業では公害対策部とか、環境安全技術室といったような部署が相次いで創設され、多数の公害対策技術者が誕生したのである。学会では、生産技術から公害対策技術を担当することになり、手さぐりで仕事をしている人たちが集まり情報交換が行われた。そして確かめられたことは、「なあんだ生産技術も公害対策技術も、これまでやってきた大型化、大量生産技術と同じではないか」
ということである。「クソの始末」も生産技術と同じように扱えばよいのである。生産系を動脈とすれば、公害対策系は静脈である。

トータルシステム

公害対策という今までになかった静脈をつければよいわけで、技術者にとってそれほど難しいことではないという見解が一般的であった。静脈系の公害対策技術は、いずれにしてもソロバンがからむので、基準値という「法律」の設定をめぐって、賭け引きと政略が尾をひくことになった。

技術論的な立場から真っ先に議論されたのは、社会(SOCIO)と技術(TECHNO)にかかわる生産システムに、生物(BIO)と鉱物(GEO)を入れた資源循環システムをトータルとして合理化することである。具体的にいえば、再生プロセスで有効なものに変換されるような物質で製品を作る。最終処分で有害物質を蓄積しないような材料であらかじめ選択するというようなことであった。トータルシステムという言葉が新鮮に受け止められたが、この段階では地球環境までは思い及ばなかった。

規制値という公害対策

ものを造る過程で発生する無用なもの、すなわち「クソの始末」も、大量にいろいろなものが出回ると、それぞれの性能や品質に相当する基準値が必要になる。1967年に制定された公害基本法では次のように定義している。

「『公害』とは、事業活動その他の人の活動に伴って生ずる相当範囲にわたる大気の汚染、水質の汚濁、土壌の汚染、騒音、振動、地盤沈下及び悪臭によって、人の健康又は生活環境に係わる被害を生ずることをいう。」

最後の「人の健康又は生活環境に係わる被害を生ずる」かどうかということであるが、その判定はどうすればよいだろうか。産業技術は科学の基礎付けから発展したものであるから、一般的にいうところの科学的裏づけというのが最も説得力があろう。そのため1976年に国立公害研究所(現 環境研究所)が創立されてデータの収集と蓄積にとりかかった。

国立環境研究所

初代所長 大山義年先生は身近な方であったので、朝のテレビで就任のインタービューを受けられたときの模様を今でもよく憶えている。
10年先、20年先をふまえてじっくりと研究を行います。」
これを聞いた目の丸いキャスターは、ますます目を丸くしてたたみかけたものである。
「なんですって、この時期にそんな呑気なことをいっていては困りますね・・・・。」

平然と微笑んでおられる先生をみて、得たりと思ったものである。科学的根拠というのは、天神様のおみくじのように簡単にはでないのである。日本の文化は科学と「掟」の源である権威をごっちゃ混ぜにしているのである。

話を元に戻せば、排出物質が有害か無害かの判定を、100%科学的に割り切れれば問題はないが、今も述べたようになかなかそうはいかないし、時間がかかるということである。また出来たとしても境界線は不確定で、ある幅をもった値になるのが普通である。一方、産業活動で排出する物質の量や濃度を少なくするためには費用がかかり、生産コストにはね返るので、競争力を失うことになる。だからほっておけば規制は緩い側の境界値へと傾くのが自然であるといえよう。有害性を実証するには時間がかかるということから、排出汚染物質の規制値は時間をかけて段階的に行われていった。天神様のお告げではなく、科学的根拠というのは、キリスト教文化の唯神論的な割り切りかたで法律ができてゆき、排出物が規制値を超えると「罪」になり「罰」せられるという秩序が生み出されていった。

国際的広がり―ISO14001とヘゲモニー文明

「公害」という言葉はやがて「環境」に置き代わり、1993年には「環境基本法」が制定され、そこには「地球環境保全」の項が入れられた。地球環境保全になると、どうして国際的なつながりが必要であるから、積極的協調する姿勢が示されている。次いで1994年には「環境基本計画」、2000年には「循環型社会形成推進基本法」と、環境問題の輪がリサイクル、国際化へと広げられている。

一方、国際的な取り決めとしては、スイスのジュネーブに本部をおくISO(国際標準化機構)というのがあって、環境にたいしてそのような理念をもつべきかを明確にして、これに沿って企業や組織の運営をしていこうという取り決めがなされている。ISO14001(環境マネジメントシステム)というもので、環境を無視し、環境に悪い影響を与えるような「もの造り」の方法でできた製品や、また製品のなかに有害物質を含むような製品は、加盟国の市場から排除し、条件に応じない企業は輸出できなくなる。ただその取り決めの考えかたには、「クソの始末」という「掟」ではなく、「法律」という契約によって「枠組み」を設け、「罪と罰」が支配している。ヨーロッパ文明を中心とする企業が自分のところの事業が有利になるようなヘゲモニー、すなわち主導権争いが露呈している。世界がこぞって地球環境や資源枯渇に対処しようという理念とは裏腹に、企業が市場競争に有利なるためのヘゲモニー争いの場になっている。

CO2取引所

このヘゲモニー争いは今や更に2酸化炭素削減の場にも持ち込まれつつある。京都議定書に始まる2酸化炭素節減は、もともとEU諸国が主導的によって提案されている。日本は京都では議長国に祭上げられ全面的に同調しているが、日本は欧米に先んじて省エネルギー対策を進めていたので、その時点からの出発点というのは不利であった。多くの国がひしめくヨーロッパ勢の会議上手、ヘゲモニー争いでここもISOと同様に仕手やられているのである。そして遂に2酸化炭素排出量は株の売買と同じような市場ができつつある。2酸化炭素排出量削減に効果があることは確かであろう。しかし、2酸化炭素を抑制すれば地球環境問題は1件落着というものでもなかろう。

もう1つの大きな問題は、この章の口絵にもあるように人口問題である。2酸化炭素排出量取引をここでも使うとすれば、出生率売買ということになる。これは先進国有利であることもさることながら、こと人の生命にかかわることであるから、たちまち巨大な障壁に囲まれるであろうことは想像に難くない。

(3.4)ヘゲモニーをこえて「持続的融和」

「持続可能な社会」の立案の難しさと具体化の動き

「戦争と平和」という小説があるように、平和の反対は戦争である。2007年のノーベル平和賞が「気候変動政府間機構」(IPCC)の活動に与えられたということは、地球環境問題は今や戦争だということである。それだけにいろいろ難問をかかえている。いくつか挙げてみると、

@各国が自ら進んで国益を損ねることに合意することの難さ
A将来のために現在の利益を犠牲にすることの難しさ
B不確実なことに政策決定をすることの難しさ
C人間活動と環境問題の相互関係まで取り込む難しさ

これに対して対策を立てる方向づけとして、

@地球益の明確化:
@)環境保全を担当する国際期間の強化

A)大国の率先的役割分担とパイオニア的リスクの負担
B)途上国(文化国)が環境保全に協力する費用の負担
A持続可能な考え方の具体化:(例)漁業協定(持続可能捕獲量)
B不確実性に対応できる柔軟構成:
@)研究の組織化

A)環境消費税、 排出権の売買
C個別の縦割り行政分野の利益を超えた総合性

などが挙げられている。お役所の杓子定規な書類のような文面になってしまったが、もう少し続けよう。

京都国際会議場

地球環境に影響をもたらしたこれまでの人類社会の発展に関する思想は、欧米の唯神論的弁証法といって、2大政党のように相対する2つの主義を向かい合わせて進めている。環境問題においては、

楽観主義:目覚しい技術の発展と効率的な社会経済機構によって自然の制約でも地球環境問題でもなんでも克服でき、科学技術に絶大な信頼をよせる調和型開発主義、技術楽観主義(テクノセントリスト)

ロマン主義:産業革命の反動として、自然の破壊を嘆き、自然を賛美し、自然の懐に抱かれて生活することを基本とする自然回帰主義、地域社会主義、ガイア主義(エコーセントリスト)というのがある。そしてすでにいくつかの国際機関が活動している。その中で日本の地名を冠した「京都議定書」はよく知られているが、気候変動枠組条約締約国際会議で取り上げられているものである。

日本の科学技術者が画いた「持続的発展」のシナリオ

地球を温暖化に導くとされる、いわゆる「温室効果ガス」の排出量は、地球の吸収能力の2.5倍に達するとされている。「持続可能な社会」のためには、この温室効果ガスの排出を低減させようという話し合いが、よく知られている京都議定書(CPO3)である。その要点は、1990年を基準にして、2008年までに2酸化炭素の排出量を削減する目標を次のように定めたことである。

日本 6%  アメリカ 7%   EU(欧州連合)  8

これを実現するために、日本の科学技術者が描いたシナリオを図で紹介しよう。一寸ややこしいが、頭の体操に分かる範囲で見ていていただきたい。

生産技術のタイプとその選択
(岩波講座地球環境第1巻p.209,1998)

図の横軸に環境負荷をとると、2酸化炭素排出量のように環境を汚すような要素はマイナス方向になる。それに対し環境負荷を改善するような要素はプラス方向になる。縦軸は経済性、利便性であり、ここでは1990年における縦軸の値を基準値にゼロとする。横軸に2酸化炭素へ排出量をとると、1990年の時点における日本は9.1トン/(人・年)であったから、図のA点となる。2008年には6%削減しなければならないのであるが、実際は少し増えてしまってB点にある。今後さらに増えてC点になるようになってはいけない。排出量が世界の平均値となるE点が望ましく、自然界が吸収できる2酸化炭素排出量とバランスするF点が、理想とする持続可能な状態である。

ここで、C-D-E-Fを結ぶ線はその時点で得られる経済性、利便性と、その時点の科学技術のレベル達成できる2酸化炭素排出量の関係(科学技術のフロンティアライン)を表している。持続可能というもう1つの設定は、経済性、利便性をマイナスにしないという設定である。現在(B点)を下回らず、F点を目指そうというのである。技術楽観的思想で描いたシナリオの1つである。

持続可能のカギは文化(掟)と文明(法律)の融和

この章のしめくくりに、もう一度くだんの日本人学生(J君)とアラビアの留学生(M君)に、アジア佛教国の留学生(B君)も加えて登場いただこう。

B:京都議定書では先進国と言っていますが、ここでは科学技術文明を取り入れた文明国ということにしましょう。議定書では文明各国の2酸化炭素排出削減目標を日本6%、アメリカ7%、EU8%としていますね。ただこれらの国のGDP百万ドル当たりの2酸化炭素排出はそれぞれ日本0.15トン、アメリカ2.8トン、EU2.0トンとなっていますから、EUは日本に比べ削減の余裕がきわめて少ない。GNP当たりにすれば、日本はもっと楽に目標が達成できたのに、ISOと同じように会議上手のヨーロッパのヘゲモニーに仕手やられているといわれていますよ。

M:日本はアメリカやヨーロッパになにか提案されると、主体性を主張することなく素直に追随してしまうのですよ。それにしでも、この図は実によくできていますね。

J:別になにも主体性などにこだわらなくてもいいではないですか。だけど、あるヨーロッパの国の人から、わが紳士国ではすでに環境にやさしい生活をしているが、日本人はそれで金儲けしか考えていないかと言われた人があるそうです。

M:環境の技術で日本に先を超されたから、負けおしみを言っているのですよ。日本は明治維新によって近代化を成し遂げ、20世紀に入るや日露戦争に勝利したことによってヨーロッパの植民地政策に歯止めをかけた頼もしい国ですから、大いに頑張って欲しいのですよ。

B:地球環境問題は、そのようなヘゲモニーにこだわっている場合ではありませんよ。いずれにしても京都議定書にはインドや中国などを発展途上国とよんで規制の対象からは外しています。これらの地域はそれぞれ長い歴史と伝統文化をもって生活しているから、発展途上国ではなく、ここでは文化国ということにしています。ただこれら文化国の地域は著しく人口が増加しているので、科学技術文明をとりいれた国々と同じようなことしたら、地球は瞬く間におかしくなりますよ。「持続可能」などありえないことは、なにもあれこれと統計資料を持ち出してゴチャゴチャいうまでもなく分かりきったことですよ。京都議定書はこれからグローバルにみんなで本格的に地球環境問題を協議するための、ウォーミングアップにすぎないと思いますね。私たち仏教国では、ただ物を豊かに提供すればよいというのではなく、満足を提供する経済活動を追及しているのです。科学技術文明をそのまま受け入れるのではなく、お互いの文化を尊重しながら「持続可能な社会」を目指したいのです。

M: 前の節で、2酸化炭素排出削減の枠を、株の売買と同じような市場ができていると聞いて驚きました。我々工学系の者にはよく分かりませんが、まさに欧米的ヘゲモニー争いがここでも顔をもたげかと思いました。そんなことに目を奪われて、2酸化炭素の排出削減さえすれば地球環境は一件落着というような風潮に引きずられないか心配です。それよりも何よりも大きいのは人口問題でしょう。先生は出生削減率に枠を設けて売買することについて、何かタブーにでも近づくかのようにこわごわと書いていましたが。

J:あの先生の頭の中にあるのは、ミサイルの追尾や原子炉の臨界値制御に使われるメタステーブル理論だと思います。メタステーブルというのは不安定な綱渡りのような状態で、この章の口絵に描いてあるように、左の環境に足を外すと地球は破滅、右に足をとられると人口激減状態に転落する。

M:なる程。だけど地球環境破壊ってなんだろう。おどろおどろしい予測が氾濫しているけれど、人類が1人残さず消えてなくなるわけでもないだろう。

J:そこまで精密な予測は見たことがないね。

M:文明人というのは、人間をとことん追い詰めたとき、どこまで生き延びるか分かっちゃあいない。

B:真っ先に文明人が滅びるだろう。しかしそうなると、どうでもよいけど今の状態に戻るには、何万年も何十万年もかかるかも知れない。

J:曖昧なところには、いろいろな憶測が飛び交っているわけだ。これに対して、人口激減の方は軟着陸が考えられなくもない。つまり1人子政策をとれば、単純計算から3世代で8分の1となるから、100年足らずで地球上の人口は10億人を下回る。これなら軟着陸できないことはない。どうだろう。そうすると、B君のいう仏教経済も実現可能ですよ。

メタステーブルには2つの安定点

B:つまり出生削減率に枠を設ける政策賛成論ということですか。1人子政策ならばすでに中国では経験があるわけですが、それは内向きの政策です。外向きの国際的な話し合いの場では論理は一変するでしょう。外に向かうと、生命の尊厳を強く主張する文化があることだし。この問題がタブー視されるのは、そういうことではないですか。

M: 出生削減率の枠をお金で解決するというようなことが、声高に取り上げられないのはその辺の事情かもしれないが、我々若者は前向きにタブーに挑戦したいですね。

J:それでは次に、「科学技術文明」について考えることにしませんか。

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