●notice-ai/Serve21-05
外山茂樹/地球を救う“かけ声”たちを総点検
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§5「豊かさ」で「幸せ」の扉は開けない
(5.1)「豊かさ」の行きつく先
「科学技術」で得られる「豊かさ」の限界
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●前の章の§4では、「持続的発展」という見方から科学技術について、「経済」「文化」「生活」「社会」「政治」「地球環境」といった項目あげて考えてみた。そうすると、「科学技術」の次にあるものを見抜いておかなければいけないということで、§5“「豊かさ」で「幸せ」の扉は開かない”へと引き継いだ。「科学技術」とはうって変わって哲学的というか、抹香臭い題目になってしまったかなと思いつつ、キーを叩くことにしよう。
●さて、日本の社会では「豊かさ」に倦みはじめ、豊かさだけでは「幸せ」は得られないと感じるようになっている。総務庁の調査などによると、3分の2以上の人が「物質」よりも「精神的豊かさ」を求めているという。これはすでに1980年代から指摘されている。それでは精神的な豊かさとはなにか、これを人々の生活時間に焦点を当てて考えてみよう。
●時間というのは1日24時間、老いも若きも金持ちも貧乏人もみな同じである。この24時間というお皿にいろいろな生活時間の盛り合わせを絵に描いてみた。各「ネタ」について「科学技術」によって得られる「豊かさ」と限界を考えてみよう。
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[寿命]:医学の進歩によってどこまで延ばせるだろうか。それにしても、どこまで延ばせば気が済むだろうか。
[移動時間]:自動車や飛行機などの発達でどれだけ短縮できるか。短縮できてもすぐ当たり前になり、利用できる人と出来ない人の格差問題がとりざたされる。
[労働時間]:生産技術やIT技術の発達で能率化。しかし、労働市場で価値をもつのは、労働時間であって成果ではない。
[自由時間]:娯楽、趣味、ボランティア活動に、交通の発達は活動範囲を広げ、IT技術は新しいテーマを提供した。しかし本質的な主役は文化であり、科学技術はどこまでも脇役。
●このほか[睡眠時間]・[勉強時間]・[自己啓発時間]などお皿に盛り付けられている。しかし、これら「科学技術」とは無関係であり、そして再び総理府の調査によれば、国民は自分らしく生きることの難しさを感じているという。労働を「徳」とする文化が、労働を「罪の償い」とする文化にふれて感化されたとき、人々は生きる目標を失い、ひいては退廃をもたらす。労働者は組織への忠誠心を失い、経営者は裸の王様となって不正、隠蔽が横行する。この傾向を現在の日本に見出すことができる。
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「豊かさ」を求める経済学の限界―市場原理だけでは地球を救えない―
●§1で紹介したエントロピーを提案したルドルフ・クラジウス(1822-1888)も、その少し後の熱力学の大家サバンテ・アーレニウス(1859-1927)も、科学技術がこの調子で進んでゆくと、やがて地球上の資源はなくなってしまうという心配を書物に書き残している。19世紀の科学者が、すでに資源の枯渇と2酸化炭素による地球の温暖化を心配していたというのに、現在の新古典派と呼ばれる主流とされる経済学においては、そのような認識は殆どないという指摘がある。
●今の経済学の中心原理は「見えざる市場の手」、「規制なき完全な自由市場」が「最適解を自ら見出す」という思想が支配しているという。これが現代社会の経済活動、市場、マネー論の基礎になっているとのことである。
●この延長上に、現在アメリカが主張する規制緩和、グローバリゼーションというのがあるようだ。「自由競争こそ最適」という論理から、いまや国という垣根も邪魔であるとする考え方である。§4で紹介したヒフィテの経済が支配する時代がそのままとっぷり実現した感がある。しかし、これでは「強者必勝、弱肉強食」を容認し、「効率」を万能とするこの思想の先には、「自然」がはいる余地はなく、地球の有限性に目を向ける機能を失った社会であり、自然環境は「市場の手」からは見放されるよう運命付けられてしまうのである。
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●社会がこのように物欲や金欲といった低俗な人生目標だけで埋められるような社会が長続きするであろうか。戦いに明け暮れた20世紀をたまたま勝ち残り、その価値観を世界に押し付けている戦勝国には、挫折という内向きの思考に欠如している。市場原理を至上とする思想は長続きするであろうか。福祉の中核である医療を、市場が食い物にしているような国が、世界の動きをリードしてよいであろうか。このようなメカニズムでは、とても地球環境を救うことなどできないであろう。
Satisfactory(満足)を「悟り」ファクトリーと読む
「豊かさ」は退化をもたらし「幸せ」は自己矛盾
日本人学生(J)君、アジア佛教国の留学生(B)君、アラビアの留学生(M)君のフィクション会話
J:この章は[「科学技術」で得られる「豊かさ」の限界]という節から始まって堅苦しいね。せっかく前の章で、「科学技術」の他に、「さむらい技術」、「論語技術」、「もったいない技術」、「コーラン技術」などという言葉を発見して気勢を上げたのに、定着しないようだ。
M:だんだん哲学的になってきたね。
J:日本はアメリカのような豊かな国になることを目指して、産業の高度成長に成功したけれど、1970年代に入ると公害問題、それからオイルショックという資源問題が立ちはだかったのです。その頃、「成長の限界」という本がタイミングよく出版され、資源の枯渇は近い将来現実の問題になることを、計算機で弾き出してみせたでしょう。グラフはよく分かるからね。しかしそれらは、省エネやIT技術を駆使して一旦は克服さたと思い、IPCCが地球環境の異変について警告が出るまで忘れていたという感じではないですか。
B:1970年代には、「成長の限界」のほかに、「スモール・イズ・ビューティフル」(小さいことは好いことだ)というのもキーワードになったのです。これはイタリアのシューマッハー先生が1966年に「仏教経済学」と題する論文に示されている考え方です。
地域でとれる資源を使って自給自足の生産を行うのが、最も合理的であるとしています。最小限の消費で最大限の幸福を得ることを理想としているのです。このような理想は永年積み重ねた伝統文化に根差した生活様式がこれを可能にするのです。キリスト教徒が広めた近代経済学は最大限の消費で最大限の幸福を得ることを理想としているのです。豊かさは労働の尊さを忘れて人を怠惰にし、便利さは人の生活機能を退化させるのです。その結果、豊かさを手にできない人達が増えて、格差社会スパイラル現象のようなものが起こる。
M:つまり、物質文明で得られた「幸せ」というのは自己矛盾でしょう。信仰のない「幸せ」は心に空洞を作るだけです。
J:「幸せ」と「満足」の違いを皆さんが話し出すと、また長くなりそうだけれど、満足のことを英語で Satisfactory といいますね。仏教用語と合成して「悟りファクトリー」というのはどうでしょう。
B:また新語ですか。駄洒落今日はこの辺にしておきましょう。
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(5.2)ちょっぴり粋な数学で地球環境を占う
第1幕 東海の小島の磯:悲しき業(サガ)よ「啄木」の式
●数学というと、それだけでもう結構という人がいるそうですが、空想的で結構「粋」でロマンチックなところもありますから、ちょっとお付き合いください。例によってフィクション会話で、石川啄木(1886-1922)とアインシュタイン(1879-1955)にご登場いただきました。舞台は「東海の小島の磯」の砂浜。
アインシュタイン(E):やあ啄木さん、今日はここでカニと戯れていらっしゃいますか。
啄木(T):はい、ご覧のとおり殺風景なところで、私の詩を読んで来られた方をがっかりさせています。
E:私だって彼の相対性理論を発表したのは、権威ある立派な研究所ではなく、スイスの特許庁でフリーターをしていた時でしたよ。ところで、私と同年代の啄木さんはこんな歌を詠まれましたね。科学少年たったのですか。
エッチツー(H2)とオーツー(O2)とがあい結び
エイチツーオー(H2O) 水となりけり
T)あれは中学2年生のころで、無心にただ驚きを歌に詠んだものです。それにアインシュタイン先生は確か与謝野晶子(1878-1942)さんとほぼ同年代で、私は7つほど年下になります。
啄木の式
E:ああそうでしたか。私より大分早く亡くなられたので、勘違いしました。詩人は喜びや悲しみを何倍も大きくして受け留められるので、短時間で一生分を駆け抜けられたのでしょうか。
T:時間が縮むとは、さすがアインシュタイン先生らしい解釈ですね。しかし、人間は何歳まで生きれば満足なのでしょう。
E:それこそ無限に難しい問題でしょう。私は「無限なるものが2つある。それは宇宙と人の欲望だが、前者のほうはよく分からない」と言いましたが、これに当てはまります。それから啄木さんの歌にこういうのがありましたね。
才あるは才におぼれぬ 色あるは色にまどえぬ悲しき業よ
これに私の思いも継ぎ足して数式にしてみました。ご覧下さい。sはエントロピーで、また後で説明します。
T:なるほど。人間というのは業の深い動物です。ほかっておけば、地球環境がおかしくなるのも目にみえています。先生なんとかなりませんか。
E:私も核不拡散問題などいろいろやりました。しかし全く目途がたちません。悲しいことです。
第2幕:赤提灯(1):自然は不平等という非情は数理
●舞台は再び渋谷の赤提灯、§4の続きで、代々樹壱咲(Y)と大山義年先生(O)が、地球環境戦争の行き先を語り、「豊かさ」と「幸せ」の関係に話が及んだところへ、文人科学者寺田寅彦先生(T)(1879-1935)がタイミングよく登場。
T:やあ遅くなりました。私は渋谷は久しぶりだから、変わりようには驚きました。上野英三郎先生の忠犬ハチ公が話題になった1920年代の面影は全くありませんね。
O:先生どうも本郷からわざわざ有り難うございました。1920年代に私は本郷の学生でしたが、あの当たりは今でも少しは昔の思い出が残っているところがありましょうか。
Y:ところで、今日のフィクションの第1幕の舞台は「東海の小島の磯」でした。
T:あゝ、石川啄木が「一握の砂」を詠んだところですね。
命なき砂の悲しさよ 握れば指よりさらさらと落つ
というのがありますね。あのサラサラと落ちた砂はどのように積もるかというと、紋様を描いて一様にはならない。
Y:先生は「砂の紋様」という随筆に書いておられましたね。あれは、「非対称性」の数理から証明されました。
寺田寅彦と砂の紋様
T:そんなややこしい言葉を使わなくても解るんだ。粉はバラバラだから一様に積もらない。水や空気は粘り気があるから、捻れができて渦ができたり偏って流れる。私と同じ年のアインシュタイン先生が啄木の式にまとめられたように、人の心も業があるから一様にはならない。どんどん格差がついてゆく。
Y:人を含め自然の摂理とは非情なものですね。このままでは地球はおかしくなるばかりです。
T:つまり、森羅万象を数理的にイメージすると、山あり谷ありの凸凹だらけ、これが次々刻々変化している。谷は戦争であり、経済恐慌であり、資源枯渇といった、いわゆる「滅亡の恐怖」です。そしてピークは「欲望の開放」につながる事項でしょう。人間は今や地球環境破壊という恐怖におののいていますが、最後に生き残れるのは科学技術文明の恩恵を享受していない人達でしょう。動物でも食べ物が豊富なときは、大食の動物が増殖し、少なくなると小食の動物が生き残るといいます。
そうだ、これで今頼まれている随筆をまとめよう。
(寺田寅彦先生、風となって退場。)
赤提灯(2): 「成長の限界」をグラフで示したした
システムダイナミックス(SD)という数学
Y:寺田先生は天国でも執筆に忙しそうですね。先生もいろいろな委員会のお世話でお忙しいでしょう。
O:いや、君が天国にいない分だけ楽をしているよ。
Y:それではこの世でせいぜい長生きするように心がけます。
O:人は幾つまで生きれば気が済むか、分かりやすい本でも書いておきたまえ。分かりやすくね・・・!。
Y:科学技術の恩恵がこれほどまでに生活のすみずみまで行き渡っている世の中ですから、科学技術者はもっとリテラシーに気を配らないといけませんね。
O:リテラシーというような難しい言葉を使わないほうが・・・。
Y:つまり、科学技術者も一般の人に分かりやすく正確に内容を紹介できるようにしたいと思うのです。
O:その意味では、廃棄物処理のプロジェクトで君が持ち込んでシステムダイナミックスのモデルは分かりやすかったね。
Y:§1で紹介した当時の通商産業省のスターダスト計画でしたね。システムダイナミックスというのは、いろいろな専門化が集まって議論した結果が、自動的に数式となって計算が進められる。あのときは通産省の委託研究を化学工学会が受託しましたが、大山先生にはそのまとめ役として大変お世話になりました。
O:結果はどうだったでしたかね。
Y:計算結果はゴミ対策で一番効果的なのはゴミを減らすことで、技術開発はそれに比べるとはるかに小さいという結果でした。これから技術開発プロジェクトを立ち上げようという委託先の通産省は渋い顔をしていました。
O:それは別にたいしたことではないでしょう。あのシステムダイナミックスという手法で、一般の人にも広く知れ渡ったのは「成長の限界」という本でしたね。
システムダイナミクスによる成長の限界に関する計算結果
Y:1970年代の高度成長期に、このまま成長を続けると、図のように資源が枯渇して環境汚染も進み、2050年頃には人口も衰退するという予測です。マスコミにも取り上げられて、大変な衝撃を与えました。地球環境のことは言っていませんでした。
O:昔は数学者といえば紙と鉛筆の睨めっこで、孤高の人、やせたソクラテスというイメージだったが、あのころから変わったね。手前共はこんな計算ができますといって営業に歩くようになった。
赤提灯(3):「カオス」という落とし穴
●舞台は引き続き渋谷の赤提灯。先ほどからカウンターの隅でポカンとしてカレーの干物を器用に箸で食べていた西洋人(P)が、代々樹壱咲(Y)と大山義年先生(O)の話に割り込んできた。
P:先ほどからシステムダイナミックのお話をしているようですが、あれはどちらかといえば単純な線形モデルでしょう。しかし森羅万象およそは非線形で非対称で構成されているわけです。このカレーにしても、平目かどうかわかりませんが、いずれにしても非対称な形をしているでしょう。これを数学的にイメージすれば先ほど寅彦先生が画かれたようなとんがり山や穴ぼこだらけということになります。
魅惑のクレオパトラとカオスの落とし穴
●しかもそれは時々刻々休まず変化していますね。さらにそれがちょっとした条件の変化によって後々大きく広がってゆく。ここのところが大事です。ちょっとした変化で、大きな落とし穴にドスンと嵌ってしまうという数理です。そういう世界を見抜いて私達はカオスと呼んだのです。「クレオパトラの鼻がもう1センチ低かったなら、歴史は大きく変わっていたであろう」というような、叙事詩的世界なのです。
Y:これはどなたかと思えば、ポアンカレー先生(1854-1912)ではありませんか。フランスの落ち着いたナンシーの町から東京にこられていかがでしたか。
P:いやいいや、ここはどうもアメリカのニューヨークよりもっときめ細かく物質文明に押し流されていますね。
O:なるほど、きめ細かくですか。
Y:私もアメリカではナンシーの大学からこられた方と一緒に研究をしました。同じナンシー市民であるポアンカレー先生のことを大変誇りにされていました。そこでカオスや前節のメタステーブル状態の制御方法などを勉強して、これを化学反応装置の爆発を予知することに応用する研究をしていました。
O:その理論が一番先に使われたのは、ミサイルを飛ばすときの弾頭弾制御に使われ、それから原子炉での核分裂制御につかわれ、それからコンピューターが目覚しく進歩したことによってだんだん身近なところに応用されるようになってきたわけです。人間も欲をもつと、このメタステーブルの縁を歩くようなことになってくる。地球環境については、社会の仕組みを創るリーダーが、欲望の塔に目を奪われず破局の落とし穴にはまらない舵取りがいかに大事であるかということを教えていますね。
赤提灯(4):アナポリズムとメタポリズム
Y:そのメタステーブルで思い出しました。それは先生に委員長になっていただいてまとめた、東京湾のプランクトン調査です。汚染が問題になり始めた1972年に、東京湾を4つの区域に分けて海水のサンプルを採って、その中にいるプランクトンの種類と数を調べました。たまたまメモを持っていますが、ご覧の通りです。湾の奥のほうでは、1ml当たり23,000個体もありますが、種類は18です。それに対して湾の出口ではプランクトンの種類は倍の38、一方生息する個体の数はわずか60と400分の1になっています。
東京湾各区域(A,B.C,D)におけるケイ藻種類(上覧)と
同細胞数(下蘭:セル/ml)[日本海水学界1971年調査]
O:つまり海水中に栄養分が増えると、それを食べるプランクトンが増えるが、過密になって競争に勝った種族だけが生き残る。反対に栄養分が減るとプランクトンの数も減るが、ゆったりとした場所で競争することが少ないから種類が増えるわけですね。つまり、栄養分の曲線とプランクトンの数の曲線には3つの交わる点ができる。真ん中の交わる点より上では、個体数は豊富にある栄養分を摂って右上がりの矢印のように増えて、上の交点でバランスする。逆に栄養分が少なくなると、個体数は左下がりの矢印のように下がって、下の交点でバランスするという関係ですね。
Y:その中間の交点がいわゆるメタステーブルという状態ですね。数学的なモデルを作って確かめてみると、わずかな状態の変化があると、上か下かいずれかでバランスをとろうとする。ポアンカレー先生が指摘した、いわゆるカオスという数理にしたがった自然現象が発生するわけです。冷酷な自然の摂理が数理の世界でも立証できるのです。
これを東京湾のプランクトンではなく、地球上の人間に当てはめるとどうなるでしょう。人間を富裕層という種族と、貧困層という種族に分けて考えると分かりやすいでしょう。栄養分は資源を考えれば、貧困層は左よりの資源を少ししか使わない下の交点生活していることになる。仏教徒のアジアからの学生が言っていた、仏教経済学はこの状態を理想としていることになる。地球の人口はそこまで少なくなれば、それはまた地球を救う正しい1つの考え方で私も支持できるのです。
しかし今の人口は、真ん中のメタステーブル点をやや超えているではないでしょうか。ここでは富裕層はどんどん右上がり資源を消費して上の交点へと曳きあげようとしている。ただそれがバランスする交点は、「成長の限界」の本で指摘されているように、資源枯渇という破滅の終点ですね。現在は貧困層が右下へ引っ張っていてくれるお陰で暴走しなくて済んでいるという状態でしょうか。この図形を見ると空恐ろしい気がしますね。
メタステーブルは綱渡り
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(5.3)恃むは「豊かさ」を放出する「幸せ」
「豊かさ」と「幸せ」の関係式
●地球環境を、ちょっぴり粋な数学で占ったついでに、「豊かさ」と「幸せ」の関係式を作ってみよう。先ほどの学生の話にも出てきたように、「豊かさ」だけで「幸せ」になれるものではない。豊かであれば、いくらでも幸せになれるというものでもない。身近な例でいえば、ビールは1口目が一番おいしいという。しかし、続けて飲みほすほどに段々とそれ程でなくなってくる。
●これを一般的にいうと、「豊かさ」も慣れれば普通になり、便利さは生活機能を退化させる。満足のサティスファクトリーという英語から、「悟りファクトリー」という新語を作ったが、この感覚を数式にしようとすると、対数というのが思いうかぶ。
●対数は高校へ入ってから習うそうだが、簡単に説明しよう。対数というのは、log という記号で表す。そしてこれが1のときには0となる。すなわち log1=0で式そのものは説明するまでもない、これだけの話である。これが何を意味するかということになると説明を要することになる。この式は、§1の「もったいない」の章で紹介した、竜安寺の蹲(ツクバイ)に記した謎の文字「吾足るを知る」という意味を汲みとることができる。つまり、log の中の1を満足とすれば、その時の不満足は0になる。このような満足を「足るを知る」という、すなわち「悟りファクトリー」を意味している。
「豊かさ」と「幸せ」の関係式
●対数のもう1つの性質は、log10=1、log100=2となり、logの中の数字が1桁増えても、対数は1つしか増えない。
これに、「豊かさ」と「満足」の感覚を当てはめると
log(豊かさ)=(満足)
となる。10倍豊かになっても、満足は2倍にしかならない。
●生きている人間から、豊かになろうという欲望を取り去ることはできない。アインシュタインは人間の欲望は宇宙の果てよりも分からないという。地球を救うのは、「悟りファクトリー」という心は不可欠である。
●一方、反対のマイナス座標「貧しさ」の対数をとり、マイナスの横座標に耐乏度をとると同じような関係が得られる。貧しさが増せば、鈍感力は増しこれを克服する喜びが生まれる。詳しくは次へ進もう。
幸福の4階建て構造
●さて「豊かさ」をキーワードにして、地球環境について書き進めは進むほど、その先には暗雲ただよう情景が描きだされる。そこで今度は人が求める幸福について考えてみよう。
●京都大学工学部の新宮秀夫名誉教授は、エネルギー社会工学の観点から、東西古今400冊の「幸福論」に関する書物を分析して、幸福の4階建て構想を提唱している。すなわち、
1階:人間の本能的な快(恋、富、名誉など)を得て増やす。
2階:獲得した快を永続させる。
3階:苦難や悲しみを経験し、これを克服する。
4階:克服できない苦難や悲しみの中に幸福が。
●つまりここでは、人の本能的な「恋」や「富」や「名誉」などを「快」と定義し、これを成就し獲得することと、その「快」を永続するときに幸せを感じるという。これは大変分かりやすいことである。くわしくいえば、前に述べた「豊かさ」と「幸せ」の関係式のように、「幸せ」もなれると当たり前になり、当たり前になると、生活機能の退化をもたらす。さらに、信仰のない「幸せは」は単なる自己矛盾だという人もいる。
●ここで注目したいのは3階、4階の「幸せ」である。こちらは「快」とは逆の、「苦難や悲しみ」が「幸せ」を生むというのである。つまり「苦難や悲しみ」を経験して克服する「幸せ」と、逃げ隠れできない「苦難や悲しみ」の真っ只中に「幸せ」があるというのである。
幸福の4階建て構造
●さてこれは分かる気はするが、自分は1階と2階の幸福がいいというのが普通である。しかし、§1の「もったいない」という「かけ声」のところでも取り上げたように、人としての秩序を保つためには、なくてはならない「徳目」であり、「道」である。
●現在のように、科学技術がもたらす刹那的な便益を、惜しげもなく行使する文明は、早晩行き詰まると今や誰でも気付いている。しかしそれは、「持続可能な発展」などというキャッチフレーズでお茶が濁せるものではない。
●いずれ迎えねばならない「膨張しない社会」を想定するならば、発展という言葉は捨てなければならない。科学技術の活用を欲しいままにした20世紀の社会は、GNPの複利法による増大を前提にしていた。このようなアナポリズム的文明は、見境なく増大を続けるガン細胞に等しい。生と死を見つめて、過剰な増殖もなく消滅もないメタポリスムを実現するためには、3階、4階の幸福を求める心が必要である。
布施・サダカ・チャリティー
●人間の長い歴史の中で、忽然と現れた科学技術文明にいたずらに陶酔し、もはや幻惑している場合ではない。人の歴史を原始までさかのぼり、振り返ってこれまで築いたさまざまな文化に目を向ける時である。メタステーブルという一般受けのしない数理的自然則を持ち出しているが、もう一度思い出していただきたい。人間を含めた生き物が、安定して生存する状態というのは、右下の接点に当たる原始に近い生活である。人口はせいぜい数億人というところであろう。しかし現在は70億人に達し、なお膨張を続け豊かになろうとしている現状を前にしては、右下の安定点に戻ろうという思想は受け入れられ難いであろう。地球上の人口を混乱なく数億人に減らすには少なくとも千年はかかるであろうし、その間に地球上の人達の合意が必要である。しかし、真ん中のメタステーブル点を超えると、人類はいやおうなく右下の原始安定点に転落である。
●どうすればよいか。これを救うのは幸福の4階建て構造の3階、4階に注目することである。蓄えを放出する喜び、人に恵みを与える悦びである。人間が永い歳月をかけて営々と築き上げた文化の中で育てられたものである。
●貧しい人に救いの手を差しのべようという教義は、いずれの宗教にもある。キリストではチャリティとよんでいるが、仏教ではお布施というのがある。イスラム教にもサダカという同じような言葉があるという。ただ手持ちの英語-アラビア語辞典にとると、挿絵のようにアェサーンとなっており、サダカでない。いずれにしてもこれは人類の普遍的な教えである。メタステーブルな状態を制御するには、高度な技術が求められるといったが、これは高度な思想である。格差社会を見据えて、幸福を醸し出すリズミカルな微分曲線を画きながら積分値を放出する、そういう布施・サダカ・チャリティを創生したい。
布施・サダカ・チャリティー
メタステーブル点はの求心力
●日本人の学生J君、アジアからの留学生B君、アラビアからの留学生M君のフィクション会話
J:真ん中のメタステーブル点の両側に低位安定点と高位安定点があるということです。§3の「持続的発展」で、科学技術に絶大な信頼を寄せる調和型開発主義、技術楽観主義(テクノセントリスト)と、市全の破壊を嘆き自然を賛美し、自然の懐に抱かれて生活することを基本とする自然回帰主義、地域社会主義、ガイア主義(エコーセントリスト)の話がありました。そうすると、低位安定点がエコーセントリストで高位安定点がテクノセントリスト)ということになりますか。
B:先ほど低位安定点が仏教経済学の思想に対応するというような説明がありましたが、私は納得できません。仏教経済学は科学の恩恵を拒否しているわけではありません。§1の「もったいない」のところでもいろいろ議論したように、必要なものは「有難く」受け入れます。だからメタステーブル点は決して不安定点であるとは思えません。低位安定点では地球上の人口は数億人で安定するであろうというのは、実に乱暴な話です。仏教経済学というのは、もっとグローバルに広く受け入れられていい思想だと思います。
M:私からみると、この議論にはどうも信仰というものが欠けていると思うのです。そういうと日本の人は戸惑い途方に暮れた顔をして、私たち回教徒を怪しげな目で見る人もいるのです。
J:いや、そんなことはありませんよ。どうぞ。
M:新宮先生の「幸福の4階建て構造」というのはとても面白いですね。工学者らしく丹念に資料を集め、思想的にも公正な分析をしておられます。とくに3階に位置づけされる、手持ちの富や豊かさを放出する「サダカ」、それに4階に分類された苦しみを受け留めることの喜び。これなど私たちは日常生活の定例行事に取り入れています。
J:定例行事というのは断食のことですか。
M:私たちはラマダンといっていますが、これは皆さんよく知っていますよね。1度やってみませんか。とてもすっきりしますよ。胃袋を空にして、そこに心を満たすのです。「信仰なき幸福は自己矛盾」だと先ほど言いましたが、理解してもらえましたかね。B君が言ったように、そういう心が求心力となり、メタステーブルは必ずしも不安定点ではないと、私も思います。
B:心の問題を置き去りにしている人達は、物質を破壊するテロリストをただただ恐れることしか知らない。物質的に防衛することを正当化し、只々ひたすら貯えた物質的富を守ろうとしている。これはみっともないですね。
M:豊かさに慣れた人達は、手近は自己防衛能力が退化してひ弱になってしまって、そのおののき方は見るも哀れだね。
J:その辺はまた次の章で決着をつけましょう。
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