外林秀人−Sotobayashi Hideto−ベルリン通信
 Newsletter/ベルリンから・平和への願いをこめて・・

ベルリンから・平和への願いをこめて

―「広島と長崎への追悼」 講 演 会 と その活動の記録―

外 林 秀 人

外林秀人・通信欄・(echo)メッセージをどうぞ・・・・・!
echo



キール市での外林先生最後の講演活動「広島・長崎と福島への追悼」

本欄発信者:外林秀人氏におかれましては、2011年12月28日、ベルリンにてご逝去なさいました
謹んでご冥福をお祈り申し上げます


外林秀人-ベルリン通信
 
「ベルリンから平和への願いをこめて」 は 氏の遺志と祈りを継承して継続発信してまいります

Gedenkfeier zu Ehren von Prof.Dr.Sotobayashi hideto
外林秀人先生を偲ぶ会」のページへ・・・・ 

―関連ページへ―
ドイツの原子力物語 ―幕開けから世紀をこえて (改訂第2版)
講演会を聴いた若い生徒達からの感想文集のページへ・・・
ドイツの原子力物語―改訂第2版 刊行に向けて 附録 平和への願いを込めて その

外林秀人−ベルリン通信2011年12月17日

出版活動:「ドイツの原子力物語―幕開けから世紀を超えて―」<改訂第2版> 刊行に向けて

送信日時:2011年12月17日0:17(最後の手紙)

外山 茂樹様
宇田川嘉久様 

永らくご無沙汰していますが、その後お元気のことと思います。

外山御夫妻とはキールで、今秋お会い出来、楽しい時間を過ごしました。

「ドイツの原子力物語」は、2012年4月末,改訂第2版1刷として一部追加再販して下さる由、ご好意感謝し、喜んでいます。

本書2003年初版出版以来、いろいろと原子力関係で変りました。その中で一番重要なのは、ドイツの原子力発電脱退が,宣言でなく,法律となったことでしょう。2回も原子爆弾の経験をした日本が、世界に先駆けて、やるべきことでしたが、日本に先駆けてドイ ツに先攻され、恥ずかしい次第です。

原子力発電脱退は,われわれの本の,最終目的
で、282ペ-ジに記載されているように、日独協力を唱えており、将来の夢を祈念したわけです。

1953年、アイゼンハウア
による原子力の平和利用に多くの人々,ドイツも賛同しました。

福島での事件で、人間の限界、弱さが解り、自然力の過小評価により、平和利用は間違いだと解りました。


ドイツでは、いろいろと紆余曲折があったにしても党派をこえて、人民の力で脱退を決めたわけです
日本もそうなってほしいです。


1938年に原子力が発見され、我々に渡され、2011年に返却したことになります。ノーベル平和章に値すると考えています。


原子力発電脱退の問題は,「ドイツの原子力物語」(続)で、誰かが書いてくれることでしょう。


改訂第2版には、将来に夢があることを言って、ドイツの脱退を最後に述べて。おきたいと思います。

「ヒロシマ広場」が、「ヒロシマ・ナガサキ広場」となり、ポツダム市のサイン帳に署名したことは,あまり重要なことでないでしょう。

キールで使用した称号は、非核大使でなく非核特使です。


来週,19日から2、3日入院する予定です,今年の クリスマス,新年は大変で、集中した仕事は未だ無理な様です。

外山さんが元気な ので、いつものことながら、助かります。

新年のご多幸を祈ります。よろしくお願いします。

  外林秀人



外林秀人−ベルリン通信−2011年12月17日

2011年9月 <非核特使としての講演活動>

ドイツ・キール市における「ヒロシマ原爆投下の証人の報告」

広島、長崎と福島への追悼

“国連国際平和の日”(9月21日)19時から1階の会場は満席状態で、コントラバス、サクソホンの音楽、キーツアー市長の挨拶で講演会が始まった。
私の講演題目は“広島、長崎、と福島への追悼”で90分の話の後、討論を30分行ったがいろいろの方向から、活発に行われた。
ある人は、ドイツは脱退したのに、銀行など、裏で反対のことをしていると、非常に興奮して、マイクを離れず、市長も仲介に入ったが、最後にマイクを切った。人々の真剣さに強い印象を受けた。

非核特使の「委嘱状」と「表彰状」を受ける外林秀人氏夫妻  (左)は神余隆博 在ドイツ連邦共和国日本国大使  (右)はキール市長  

 

神 余 隆 博 在ドイツ連邦共和国日本国大使 から頂いた書簡より・・・

非核特使としての外林様のご活躍は、唯一の被爆国として、核兵器の悲惨な実情を世界中で将来の世代に語り継いでいく責務を負っているわが国の外交に直結するものであります。被爆者の方々に経験を語っていただくことで核のない世界の実現に貢献していくというアイデアは、昨年8月のヒロシマ平和記念式典において菅前総理が提唱されたものでありますが、現在では世界各地で40名近くの被爆者の方々が自らの体験を語り、核兵器使用の惨禍を将来の世代に継承していく活動を行っています。

わが国とドイツは、G8における非核兵器国という共通の立場も踏まえ、核リスクの低い世界の実現を推進する新たなグループである軍縮・不拡散イニシアティブ(NPDI)中心的メンバーとして、核軍縮・不拡散のための連携を緊密に行っています。

外林様も、2007年にベルリン日独センターでヒロシマにおける被爆体験に関する講演を行われて以来、ドイツをはじめ欧州各地で原爆の体験を語り続けてきておられ、2010年ポツダム市の「ヒロシマ広場」に新しい記念碑を設立するに際しては「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」の中心メンバーの一人として記念碑設立に尽力されました。今後も原爆体験をドイツで語る活動を続けられ、ますます日独親善のために活躍されることをお祈り申し上げます。


外林秀人−ベルリン通信−2011年8月5日

DER TAGESSPIEGELターゲシュピーゲル紙 日曜版 2011年3月27日 所載
Hideto Sotobayashi hat Hiroshima uberlebt. Ein Interview-Sonntag
インタビュー:アンドレアス・アウスティラート、バーバラ・ノルテ

ヒロシマの生存者、外林秀人
「私は血を見るのがいやなのです」

INTERVIEW:ANDREAS AUSTILAT
UND BARBARA NOLTE
FOTO:DOLIS SPIEKERMANN-KLAAS

外林秀人(82歳)は広島で生まれ長崎で育った。1964年より在ベルリン。ベルリン工科大学にて物理化学の教授となりマックス・プランク協会で研究を重ねた。
1988年にドイツ人のアストリッドと結婚し、ミッテ地区に暮らしている。

広島に原爆が落とされたとき、16歳の外林秀人な学校の教室に座っていた。彼はフクシマをどのように見ているか、そして若い人々に何を語るのだろうか。

外林秀人教授、日本の大災害の動向をどのように追っておられますか?

インターネットや日本の新聞、もちろんテレビも見ています。放射線の測定を受ける子供の様子や、ガイガー。カウンターが高い測定値を示したため、衣服を脱がなければならない人々の写真を見たとき、私は被災者の方々が自分や、当時の多くの人々と同じような目に遭うのではないかと危惧しました。すなわち、差別という問題です。

といいますと?

一度被爆すると、放射能が感染すると思っている人がたくさんいるのです。ですから社会のつまはじき者にされるのです。

ご自身もそのような状況に置かれたのでしょうか?

つい数年前まで、私が原爆投下時に広島にいたことは秘密にしてほしいと、弟は強く迫ってきました。でも彼は医者なので、そのような心配が理にかなっていないとわかっているはずです。子供達たちが、私のような叔父のせいで、縁談に支障をきたすのではないかと心配していたのです。ですから、私たちの母の名前が広島の原爆記念碑に加えられるのも弟は望みませんでした。「すくなくとも僕の子供達が結婚するまで待ってほしい」と。そんな彼のために60年間、私は待ったのです。

日本では電力の35%を原子力発電にたよっています。日本は唯一核分裂の破壊力を経験した国であるのにもかかわらず、エネルギー供給をなぜこれほど原子力に依存しているのか、説明することはできるでしょうか?

奇妙なことに、日本人は核の軍事使用と平和的利用とを分けて考えています。ですが、現在起こっていることを見ると「平和的」というのは間違った考えだと思いますね。日本では原子爆弾の拡散を止めようという動きは強いですが、原子力を電力として利用することは、簡単に受入れてしまうのです。例えば、私の妹は私と同様核兵器に反対していますが、彼女の夫は電力会社の監査役です。彼女が言うには「お兄さん、義弟の前で言うことには注意して。原発のことを悪く言うと、彼は嫌がるのよ」。

ご兄弟はまだ日本で生活されていますが、この大災害で被災されませんでしたか?

いえ、妹は広島に、弟は京都に住んでおり、どちらも危険地域から遠く離れています。家族と東京に住んでいるわたしの甥の何人かは、全く通常通り職場に通っています。すでに東京を離れた人々もいますが、そんなことが可能なのは、そもそも年金生活者の老人だけです。職場が東京にある人は、簡単に仕事をやめることなどできませんから。

外林教授は数年前から核兵器の廃絶のために力を注ぎ、日本とドイツの学校で講演されています。原子力発電についても警告を発しておられるのですか?

原発は私の研究テーマではありませんでした。この数週間で初めて、私は原発への理解を本当に集中的に深めたのです。ある人が、20年間原発で働いた後、癌で亡くなった日本のあるエンジニアのレポートを送ってくれました。原子力発電所は全てが円滑に機能しているとその近隣の人々は思い込まされていますが、全く健康の危険性にさらされていない、というわけではないのです。このエンジニアのレポートでいちばん興味深かったのは、福島の事故の前から、すでに原発周辺の住民が差別に遭っていたということです。東京で婚約したものの、婚約者の家族によって結婚を破談にされた若い女性のことをその方は伝えています。この家族は、彼女が健康な子供を生めないのではと恐れたのです。

この「差別」は日本特有のものなのでしょうか?

ドイツ人でも放射能と聞いて取り乱す人はいます。ポツダムには原爆投下の犠牲者追悼の記念碑が立っており、広島と長崎からの2つの石がそこにはめ込まれています。放射能で汚染された石だと言って怖がる人がいるから、取り除かなければないという意見もありました。それ以前にその石は広島の大学で検査され、全く危険はないとのことだったのですが。

原爆が広島に落ちた時、外林さんは16歳でしたね・・・

1945年8月6日の8時15分、でした。普通この年齢だと勤労奉仕をしなければならなかったのですが、私は試験に合格したのでエリート学校に通うことを許されたのです。その時間、私たちは教室で化学の授業を受けていました。夏の明るい日でした。なのに、突然明かりがついて、みんなの顔がぱっと光ったかのようでした。それから轟音がとどろきました。

キノコ雲はご覧になりましたか?

いえ、目の前が真っ暗になり、私はすぐ気絶しました。ようやく少しずつ再び意識を取り戻すと、上のほうの穴から光が射し、自分で脱出することができたのです。私たちは爆心地から1.5キロほどの距離にいたのですが、学校中の建物は崩壊し、瓦礫の間から火が燃えていました。友人の光明君の助けを求める声が聞こえました。彼は瓦礫に挟まっていたものの、引っ張り出すことができました。一緒に家に帰ろうとしましたが、それは簡単なことではありませんでした。両親の家はそこから1キロほどはなれていて、2つの川が流れています。全ての橋は崩壊していました。光明君は歩くことはできたものの、泳げません。私は小舟を見つけ、彼を乗せて押しながら川を渡りました。

爆発のとき、ご両親はどちらにいらしたのでしょう?

私の父は幸いに家にいました。そうでなかったら私達の家も確実に焼失していたでしょう。いつもの朝のように窓から布団を干していたので、即座に火が回りました。父はすぐに消火することができたのです。

お友達はどうなったのですか?

彼はなんとか故郷に帰りました。彼はそこで亡くなったと聞いています。私は父と一緒にすぐ家を出ました。

母を探すために?

そうしたかったのですが、ちょうど私達の家に沖増君という私と同い年のお客さんが来ていました。お客さんへの責任がありますので、まず客人の面倒を見なければならない。これが日本での流儀なのです。私たちは彼も見つけ出しました。爆心地からわずか600メートルほどの場所でした。

彼は生き延びたのですか?

そこにいた人たちは、ほぼ絶望的でした。私たちは、皮膚がずたずたに体からぶら下がった人々を見ました。ある橋では、階段が川へと下って行き、辺り一面人間が川に積み重なっていました。全員死んでいると私は思いました。ところが、近づいてみると、彼等は私の足をつかんだのです。水をくれと頼む人もいれば、自分が誰で、身内に(安否を)伝えてくれと私に話そうとするだけの人もいました。水辺に沖増君も見つけました。私たちは彼の遺体を家に持ち帰り、彼の両親に引き渡すことができました。

ではお母様は?

残念ながら、私たちはどこを探したらいいのかわかりませんでした。母は勤労奉仕に出かけており、建物を壊して道路を拡張する作業に従事していました。空襲の際、火の回りを遅らせるためです。後に、私の妹は自分を強く責めていました。

そのことと妹さんとどういう関係があるのですか?

妹はまだ10歳で、他の大勢の子供達と同様、田舎に疎開していました。そこを母が訪問しました。妹はまだとても幼かったので「お願いだからもう一日だけいて!」と母に懇願しました。そのために、母は勤労奉仕の日を8月6日に変更してしまったのです。もしそうでなかったら、その日、母もまた家にいたでしょう。妹はいまでも時々自分を責めています。

お母様は見つからなかったのですか?

いえ、赤十字病院で見つけました。この混乱の中で見つかったのは、全く偶然でした。母は実際怪我をしていないように見え、表面上は無傷でした。しかし動くことができず、私たちはリヤカーに乗せて家に運びました。その3日後の8月9日、母は35歳で亡くなりました。長崎に原爆が落とされた日です。

お母様は、見た目は無傷だったとおっしゃいましたが、その3日間で病気の兆候が表れたのでしょうか?

まず髪の毛が抜け落ち、やがて歯茎から出血し始め、歯がぐらぐらになりました。私たちは棺を作り、仏教のしきたりに従って家の裏手の畑で火葬しました。母が見つかったのは不幸中の幸いといってもよいでしょう。津波が村全体を根こそぎ奪い去った仙台や福島と同じように、広島もあのように見渡す限り瓦礫の山でしたが、被災者の方々を思えば、家族や親類とお別れできるのは、まだいい方なのです。

日本人は、このような最悪の災害でもストイックな姿勢を守るよう、教え込まれているのでしょうか?

ひょっとしたらそういうことかもしれません。ヨーロッパの人々は技術で自然を征服できると考えている。アジアでは自然が強大です。つまり、台風があれば、地震も津波もある。10メートルの津波が来たら、それは運命なのです。人は運命と折り合いを付けなければならないし、何もかも再建しなくてはならない。しかし、ヒロシマとフクシマは自然災害ではありません。ゆえに人間の側に責任があるのです。

お母様が亡くなった時、どのような種類の爆弾が頭上におとされたのか、認識されていらっしゃいましたか?

いいえ、とてつもなく強力な爆弾に違いない、ということだけでした。私は最初に「なんてことだ、このすぐ近くに落とされたに違いない」と考えました。広島のどこにいようが、誰もがそう感じたのです。それからすぐに、あれやこれやと噂が流れました。髪の毛が抜けた人がたくさんいました。私も歯茎から出血しました。当時、われわれは放射線のことをよく知らず「ここを離れなければならない。今後75年間はもう広島には住めない」と言う人もかなりいました。それは公式の発表だったわけではありません。結局、今と状況はいくらか似通っていました。福島の周辺の人々も、これからどうなるかわからないように。

死者が出るのはどのくらい続きましたか?

大体8月の終りまででした。その後も犠牲者はいました。父は20年後に、胃がんで亡くなり、私はそれを放射線のせいだと考えています。私に関しては、何年か前に腸の腫瘍が見つかりました。幸い手遅れにならない時期の発見でした。他のあらゆるヒロシマの犠牲者同様、私は原爆手帳を持っていて、2年おきに広島で診察を受けることができます。

ヒロシマの犠牲者と認められたのはどういう人ですか?

コンパスで爆心地を中心として円を書き、その中にいる人は、この原爆手帳をもらえます。今日の福島を見ても、私が間違いだと思うのは、簡単に円を書くことなどできないということです。放射能はそんなに均質に拡がるわけではありません。その人が病気かそうでないかを決めるのは、距離だけでもないのです。

福島の原発周辺は避難地域とされました。何故広島は同様に見限られ、居住不可とされることはなかったのでしょう?

私は医師ではありませんが、それでも思うのは、両者を比較することはできないということです。福島周辺の地域では、この数週間来24時間常に、放射線が出ています。広島の爆発は巨大だったものの、ほんの一瞬でした。それに誰も広島の街から住民を避難させようとは思いませんでした。日本は占領下に入り、むしろ広島に人がそのまま残ってくれた方がアメリカにとっては好都合だったのです。それは興味深い実験でした。私たちは採血されましたが、手当てを受けるということはありませんでした。アメリカがビキニ環礁で原爆実験に着手したとき、どのような爆弾が私達の上に落とされたのか、初めて知ることになったのです。しかし、アメリカ人が集めたデータは、日本で見つけることはできないでしょう。

今日、福島の消防士たちは自分達がどのようなリスクを負っているか知っています。外林教授にとって、彼等は英雄ですか?

どうでしょう。彼らはひょっとしたら一種の洗脳を受け、強制されているのかもしれません。敵機に向って自ら飛び込んだ神風特攻隊は英雄だったでしょうか?私はあの時代に育ち、日本の社会階級が厳格だった古い世代に属しますが、とてもそうは思えません。ですから、われわれは若いうちに日本を飛び出し、私はドイツに、別の人はアメリカに渡りました。おかげで外国では人々がどんな暮しを送っているのかわかりました。今の日本の若い人たちは不精になり、ひきこもってしまって、容易に理解しがたいようなところに飛びこんで行かない、そんな印象を受けることが時々あります。

今日、外林教授は生徒たちに当時の自らの体験を話されています。若い世代の人たちは、原子力の危険について敏感に反応しますか?

日本の生徒達は誰が悪いのかと問います。彼らの意見では、悪いのはアメリカ人です。ドイツの生徒は、もっとエモーショナルに反応します。なぜ人間がそのようなことをすることができるのですか、と彼らは問うてきます。私が再び街に出て母親を探そうとした勇気はどこから来たのか、彼らは知ろうとします。私に勇気があったわけではありません。両親は私が医者になるのを望んでいましたが、それは叶いませんでした。これ以上血を見ることができなくなってしまったからです。血を見るのがいやなのです。それゆえに、私は化学者になりました。

外林教授の専門分野は物理化学です。

そもそも私はもう二度と放射線と関わりたくなかったのですが、でも、そうはいきませんでした。ダーレムの粒子加速器Bessyで仕事をした際に、エックス線とかかわったからです。しかし、これは説明するのが本当に複雑です。新しい物質のための基礎研究でした。

オットー・ハーンが核分裂を研究したフリッツ・ハーバー研究所に勤務されていましたね。

ええ、1950年代、私はリーゼ・マイトナーと知り合う機会がありました。彼らのどちらも爆弾を作ろうなどと考えず、基礎研究に従事していました。それは人間の好奇心と合致するものです。それをどう利用するかは、学問の問題ではなく、モラル、倫理、そして政治の問題なのです。

アメリカ人に原子爆弾の開発を要請したのは、アルベルト・アインシュタインでした。

ええ、ナチス・ドイツに対して効果的な武器を作ろうと考えたからです。しかしアインシュタインは、その後もう原爆の開発に関わることはありませんでした。彼は利用されたのです。

基礎研究に罪はないとお考えなのですね。

こう言うと矛盾して聞こえるのは承知の上です。それでもなお、私はそう信じているのです。

インタビュー:アンドレアス・アウスティラート、バーバラ・ノル
(ターゲシュピーゲル紙 日曜版 2011  3月27日 翻訳に際しては敬称略)


外林秀人/ベルリン通信2011年1月5日・発

ドイツの原子力物語”について

原発稼働期間の延長などを盛込んだ法案が、2010年11月26日に、連邦参議院を通過し、大統領の署名を経て成立する。法案は、現在運転している17基の原発の稼働期間を平均12年延長するというものである。しかし、約10年前に社会党のシュレーダー政権下で、緑の党と脱原発を決めたので、左派党を含めた野党は、原発稼働期間の延長に強く反対している。
今年ドイツでは、7つの地方選挙があり、法案の行方はわかりません。
この本は、政治に左右される事の無い、理念を示し、常に変化するもので、あって欲しくないと思います。



“ダーレム、ヒロシマ、そして世界へ・・・”

2010年12月6日、 ドレスデンのブルッモスト財団の広間で原爆体験の証言をしました。この財団はヨロッパ共同体から援助をうけ、チェッコとドイツの相互理解、共同事業の推進の事業をやっています。聴衆は80人の生徒達で、50人がチェッコ人、30人がドイツ人でした。私はドイツ語で喋り、これが直接通訳につたわり、チェッコ語になり、チェッコ人に伝わります。
反応は未だ充分に把握しておらず、後日報告します。

ドレスデンで関係の人と話し合い、今年2月13日がドレスデン大空襲の66年になり、ドレスデンの、ヒロシマの、アウスシュビツの生き残りの人が集まり、それぞれの体験の証言をする会を提案され、私は了解しました。昨日 便りが来て、テマが変わり、ドレスデンの姉妹都市コンベントリの市長を招待 しての友好式典になり、残念ながら私の場所がなくなりました。
私としては、人類えの攻撃といった題目で、ド レスデン、ヒロシマ、アウスシュビツの生き残りの人が集まる会を提案する積もりです。

ドレスデンから、シュットガルトの近くの シュウェビイシュ グムンデを訪問、12月10日に、高等学校と高等師範学校で、午前、午後2回講演をしました。
それぞれ300位の人が広い講義室あつまり、三つの新聞切り抜きが有り、近日中に翻訳して送ります。その一つが "人類への攻撃 です。


シュヴァビシュ ゲミュンデル の “ゲミュンデル ターゲポスト”(2010年12月9日)に掲載された ハラルド プロール氏
の翻訳記事を送ります

人類への攻撃

ヒロシマの原爆投下に生き延びた人が高等師範学校で証言した。

生き延びた被爆者は英雄でなく 疎外された との言葉で・・・―

ヒロシマで生き延びた外林秀人は水曜日、高等師範学校で、日本で最初の原爆投下についての講演を始めた。
この悲惨な災害を、後世で二度と起こさない為にこの災害をについて話す時期がやって来た。

外林秀人は16歳の時、学校で、人類史上初めての原子爆弾を受けた。その学校は爆心地より1.5キロメタの所にあった。
今日まで、外林を含み被爆者は或る問題を持っている。多くの日本人は、放射能を受けた人を伝染病のように取り扱い、その人々を疎外する。この事が、生き残った被爆者が、当時のことを喋りたがらない理由である。
外林は永年ドイツに住んでおり、ドイツ語で講演をした。彼も永年このタブ従い、沈黙して来たが、今それを破る時期がやって来た。政治的に世界史の発展は危惧するものがある。それだから、生き残りの被爆者は、このようなことが二度と起きないように、沈黙のタブーを破っている。

ヒロシマ、長崎への原爆投下は、人類への攻撃と考える。1945年8月6日、8時15分、異常な閃光、異常な爆風で学校の建物は崩壊した。この異常な出来事を日本人は、ピカドンと言っている。

友人を救助

彼は自力で崩壊した建物から出る事が出来た。一人の負傷した友人を、助け出した。「助けて!」の声をきいたが、火災が起き、何も出来ず、急いでその場を離れた。
彼の自宅は、爆心地より2キロメタの所にあり、父は自宅に居り、命拾いをした。父と共に母を捜しに町の中心地の方に向かった。中心地に近づくにつれ、地獄のような場面になった。火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れて下がり、幽霊のようにブラブラと歩いている人。総ての人々は水を求めており、川岸、川の水面上に多くの人々が倒れ、浮かんでいた。

“しかし・・・”と外林は訂正した。 その人々は死体でなく、まだ生きているのだ

母を偶然に、ヒロシマ日赤病院で発見し、自宅に連れ帰った。数日後8月9日に母は死亡した、35歳であった。
その日、長崎に原子爆弾が投下された。多くの被爆者は見かけ上、別に怪我も無く、怪我もなく元気そうだったが、やがて髪が抜け、歯茎から血がでるなど典型的な原爆症の症状があらわれ8月中に次々と死んでいった。
気温30度をこすと蠅が集まるのは当然であるが、火傷をした箇所に蠅がつき、卵をうみ、それが蛆になるのは自然である。外林はそのような状態を二度と見たくない”と言っている。

更に多くのオバマが必要

最後に外林はDVDを映写した。これは或る被爆写真家がヒロシマを追悼して、江戸時代からの、昔からの町並みを復元したもので、江戸時代は平和な時代であった。「それが総て全く、跡形無く消失しました。」と外林は、残念ながら言っている。

その後、無条件降伏のアメリカ占領下では、原爆による後障害についての報道は一切禁止された。このテマに関してアメリカの態度は今でも変わっていない。
このアメリカの物の見方を脱却する為には、更に多くのオバマを必要とすると最後に述べて講演を終えた。


外林秀人/ベルリン通信-2010年11月22日・発

DER TAGESSPIEGEL
ターゲスシュピーゲル新聞(2010年8月5日)朝刊 Seite-3に掲載された記事の翻訳を送ります・


2010年8月5日の朝刊より 
Herr Sotobayashi unt das Trauma von HiroshimaSeite 3

ひとりの犠牲者・沈黙を破る

カーティア・ライマン

・・・私は日本人としてではなく一人の人間としてお話しているのです・・・

 家族は彼に頼んだ。 「黙っててくれよ、でない と一家の恥だ!」。それから60年もの間、彼は口を つぐんだ。しかし世界が何も学んでいないというこ とに気付いた今、外林秀人はヒロシマの原爆投下に ついて、口を開いた。

 気温が30度、35度を超え、太陽が照っていると、平静を保てなくなる。外林にとって夏が問題なので はない。しかし暑さが記憶を呼び覚ますのだ。しの びよる熱気が肌に感じられると、汗ばみほてってく る。うすくて細いグレーの髪が生えた頭のてっぺん まで熱くなる。80歳になる体に暑さがじわりじわり と迫ってくる。暑さのせいで、彼がこれまでに整理 してきたトラウマを克服しようとする考えは、かき 乱されてしまうのだ。

    外林は猛暑のその日、エアコンが効いている場所に座ることを望んだ。65年前に体験した8月6日の ことを話すとき、彼は自分の記憶を冷静にコント ロールしなければならない。彼はその時のことを、 しっかり話せるように、きちんと並べてメモしてい た。自分に起こったことを話す際、彼は自分の殻の 中からあたかも抜け出さなければならないかのよう だ。彼の中で何かがほころび、それを外に出そうと 思うまで60年もの間、なぜ沈黙を保っていたのだろ うか。
 
  「あれから約150回の講演をしてきました」と外林は言った。講演の中で、彼はある日本のドキュメ ンタリー映画の一部分を見せた。そして、自分の日 記を落ち着いた声で、ドイツ語で読み上げた。ベルリンに住んでほぼ50年になるが、決して流暢なドイ ツ語ではない。
 ヒロシマの原爆投下を彼はどう生き延びたのか。

 「1945年8月は暑い日々でした」と彼はクーラーの 効いた涼しい中で話し始めた。第二次世界大戦がア ジアにおいても終わりを迎えることになる夏。ドイ ツ降伏の後、日本もやがて降参するものだろうと思 われていた。しかし結局は、アメリカの原子爆弾が 日本を降伏へと追い込んだのだった。広島はそれま でアメリカの空爆による甚大な破壊を被ることのな
い、数少ない日本の都市のひとつだった。勤労奉仕 の一環で、空襲の際、火の回りを遅らせるために、 建物を壊して道路を拡張する作業が日中に行われて いた。この都市は大部分が木造建築だったのである。

 8月6日の早朝、空襲警報のサイレンが鳴り響いた。 が、その1時間後には解除された。そのため、当時 エリート学校の生徒だった16歳の外林秀人は、8月6 日も普段と同じように学校へ通った。教室は2階に あった。8時15分、化学の教師がベンゾールの分子の 図を黒板に描いたその瞬間、閃光が上がった。「巨 大な電球にスイッチが入ったような」明るさだった と外林は語る。轟音がとどろき、建物は倒壊。学校 は爆心地よりわずか1.5キロほどの距離だった。 「日本語で、閃光はピカ、雷鳴はドンを意味しま す。ですから、広島の人は原爆の爆発をピカドンと 呼ぶのです」。約14万人が即死、10万人もの人がそ れから何年も病気に苛まれた。正確な数字は存在し ない。

 外林秀人はできることなら思い出したくない。長い間、彼は沈黙を続けた。それは1つに、日本の家 族に苦労をかけたくなかったからだ。広島では、原 爆の生存者は英雄ではなく、差別される者であり、人々は彼らからの伝染や奇形児を恐れている。外林 はかつて弟からこのように頼まれたことがある。 「被爆の話は自分の中に留めておいてほしい。そう
でないと、僕の子供たちと結婚してくれる人がいな くなってしまう」。しかし、外林の目には、世界は 破滅から何も学んでいないように写る。それゆえに 彼は語らなければならないのである。

 現在世界には2万3000の核弾頭が存在している。そ の威力はヒロシマの原爆の15万個分に相当する。バ ラク・オバマ米大統領は、2009年4月プラハでの演説 で、それらを「冷戦のもっとも危険な遺産」と呼ん だ。オバマは、テロリストによってこの「きたない 爆弾」が製造される危険性と、核兵器なき世界であ る「グローバル・ゼロ」の必要性について言及し た。「それは急務の問題です」と外林は語る。
 
 原爆が落とされたのは、核分裂がエネルギー生産に使われる何年も前だった。世界は大量破壊兵器としての原子力と出会ったがゆえに、多くの人はそれを危険だと見なしている。にも関わらず、今日原子 力はエネルギー需要の大部分を満たし、現在世界で は439の原子力発電が稼働し、ドイツでは発電全体に 対して核エネルギーが22%の割合を占めている。

 意識を取り戻した時、外林は学校のがれきの下に いた。そこから抜け出し、友人の光明を助け出したが、彼は顔から耳が垂れ下がっていた。周りの全てが破壊され、燃え上がっているのを見た。「なぜ広島は攻撃を受けないのだろうかと、私たちはずっと不思議に思っていたんです」と外林は語る。川崎、 東京、大阪、神戸といった日本中の大都市は爆撃を受けていた。ついにその時が来たのだと彼は思った。

 原爆が広島中心部の上空約600メートルで爆発した時、爆心地の温度は、10億分の1秒の間に約6000万度
にまで達した(これは太陽の地表の1万倍の熱さである)。地表では6000度以上の高熱が覆っていた。外林は講演の際、ある階段の写真を見せている。灰 色の石の上に、黒い影がくっきりと浮き出ているが、これは爆発の際、そこに座っていた人の影だ。投下地点に留まっていたその犠牲者は、蒸発してしまったそうである。「それは完全には正しくありません」と外林は語る。「一種のレントゲン撮影です」。つまり、大量の放射線が一気に放射されたわ けだ。「蒸発にはもっと時間がかかりますから」と 彼は言う。
外林ならそれを科学的にも説明できるだろう。というのも、彼は物理化学の教授なのである。物理学者のリーゼ・マイトナーと化学者のオットー・ハーンが核分裂を発見したことで30年代後半に融合し、後の核兵器開発へとつながっていくこの分野こそが、外林の専門領域である。ひょっとしたら、外林は客観的な学問の知識があるために、自分の体験から距離を保てているのだろうか?彼は想像を絶するむご たらしさを、過度な感情を出さず自然科学的に説明 することができる。

 長崎に生まれた外林は、広島で育ち、京都大学で化学を専攻した。両親は彼が医者になることを望んでいた。「しかし、私は血を見ることができないので す」と語る外林は、広島の通りで血という血を見た 後、それを気に留めなくなっていたことを、おかしいとさえ感じている。1957年、マックス・プランク協会のフリッツ・ハーバー研究所の2年間の奨学生 としてベルリンにやって来た。学問のメッカである ダーレムは一つの夢だった。しかも、そのわずか20年足らず前、ハーンはベルリンで核分裂の実験を行った。全てはダーレムから始まったのだった。そのこ
とが、あたかも彼をその場所に引き寄せたかのようだ。が、もちろんそうではない。あくまで学問的な興味でベルリンにやって来たのである。「ドイツといえば、メルセデス、バイエル、アスピリンでし た」と外林は語る。

 1965年にフリッツ・ハーバー研究所の助手として、 再びベルリンへ。外林は、ベルリンの加速器Bessy I で重合体やプラスチック層の研究、レントゲン放射 を浴びた物質のテストに従事し、70年代前半に教授 の資格を得た。科学者としては、人類が学問の成果 について責任を負うということを、ただ望むしかない。外林秀人は、人間がいかに愚かになり得るかを 知っているのだ。

 日本は核エネルギーを気候変動の解決策として褒め称え、国は現在54の原子力発電所を稼働させ、さら に増やす計画もある。「それは、核エネルギーを もっぱら平和的に利用していると説明するトリック なのです」と外林は語る。では、一体その廃棄物はどこへ?日本はわからない。ドイツもわからない。
プルトニウムの半減期は約2万4000年にも及ぶ。その 後ようやく、死の危険のある放射能の半分が崩壊する。外林の年齢の実に300倍もの長さである。

 講演の際、外林はプロジェクタで壁に映し出される写真に背を向けて立つ。原爆投下を思い出させる博物館にも、足を運ぶことはない。「記憶が鮮明に 蘇ってきて、あまりに感情的になってしまうので す」と語る。一瞬、彼はいつもの不安げなまなざしをこちらに向けて、微笑み、こう言った。「する と、夜眠れなくなってしまうのですよ」。茶色の目には長くのびたまつ毛が重なり、年齢と暑 さのためか、まぶたはやや重い。外林は「ヒロシマ 広場をつくる会」と共に、1945年7月と8月のポツダム 会談の期間中、ハリー・トルーマン米大統領が滞在 したポツダムの邸宅の向かいに、記念碑を設立する ための活動に従事していた。トルーマン大統領は、1945年7月25日にここで原爆の投下命令を下したので ある。ちょうど65年後の同じ日、この会は追悼の場所の除幕式を行った。バーベルスベルクのこの広場 では、いま広島と長崎からの2つのオリジナルの被 爆石を見ることができる。「広島の魂が感じられます」と外林は語る。

 2007年、外林はベルリン日独センターの大勢の聴衆の前で初めて語った。11月1日は彼の誕生日だった。また、広島に原爆を投下したアメリカ人パイロッ ト、ポール・ティベッツが亡くなった日でもあった。それからというもの、外林は旅をしては学校にも行き、子供たちに話を聞かせている。講演の後、彼らから送られてくる手紙は、外林を喜ばせる。彼 らの手紙からは、尊敬の念と、感銘を受けていろい ろなことを考えるようになった様子が伝わってく る。「なぜ、人間がこんなことをするのでしょう か?」と彼らは問いかける。あるいは、「あなたの 勇気はどこから来るのですか?」と。

 行動する勇気:
1945年のあの時、外林は怪我を負った友達を病院に運んだが、実家に戻った数日後に亡 くなった。一方、学校の瓦礫の下から助けを求める声を無視するのも勇気がいることだった。というのも、ひょっとしたら自分が焼け死んでいたかもしれないのだから、そうせざるを得なかったのだ。外林はそれらの光景を自分の中に抱え込んでいたが、もはやそれに耐えられなくなった。いまやそれについて語らずにはいられない。それまでは口をつ ぐんでいたのだが、今この歳になって、過ぎ去った人生の大部分をできるだけ早く整理し、まとまった形で残しておきたいという熱い思いが打ち勝ったの だ。1994年に彼は定年退職し、そこからようやく被爆者となった。自ら切り開いてきた人生について、 外林は多くを語ろうとはしない。1965年にベルリンで出会い、1988年に結婚した妻のアストリッドは、 仕事以外の私生活や思い出を分かち合える、外林のよき伴侶であり、彼を支え続けている。外林は自分 が見たものをプロジェクタで壁に示すことはしない。しかし、何も見せなくても、その様子はありあ りと目に浮かんでくる。

  外林の日記のメモから:
 爆心地に近づくにつれ、 次第にそこはまさに地獄の様な光景になってきた。 火傷で腕の皮が剥がれ、手の先から垂れ下がり、粉 塵で真っ黒になり、幽霊のようにぶらぶらと歩いて いる人。子供の死体を抱えて、気が狂ったように叫 んでいる人。

 外林は父親と一緒に母親を捜しに赴くよりも先に、 一家の知人を見つけねばならなかった。外林家に住んでいた沖増である。最初に客人を探すのが日本の礼儀なのだった。彼は近くの川で亡くなっていた。 階段には人々が放射線状に倒れていた。

 彼かどうかを確かめるため、人をより分けながら下 の方に下りて行った。死んだように倒れている人が、みんな生きており、「水をくれ」と足を掴んでせがまれるが、どうすることも出来な
かった。

 外林はその時泣かなかった。「そんな時間はありませんでしたから」と彼は言う。しかし、川辺で死体だと思っていた人たちが、今でも夢の中で時々彼を つかもうと手を伸ばしてくる。
外林と父親は母親を見つけた。見たところ怪我はし ていないようだったが、動くことはできなかった。 リヤカーに乗せて、母親を家に連れて帰った。長崎に2発目の原爆が落とされ1945年8月9日、彼女は35歳 で亡くなった。父と息子は、母のために棺を作り、火葬に付した。2人がそれについて話すことはその 後なかった。

知人や親戚が、爆心地から約2キロの距離で、破壊 されずに残った外林の家にやって来た。彼らは怪我をしていないように見えたが、数日後には髪が抜け、歯茎から出血し始め、全員が亡くなった。父と 息子は必死に働き続けた。「お米を食べました」と彼は追想する。「でも、一体誰が炊いたのでしょうね?」。何はともあれ母親はもういなかった。

20年後、父親は癌で亡くなった。外林秀人も1945年以降、血液検査を受けており、腸に腫瘍ができたこともある。いつだったか?それは重要ではない。

外林秀人の話は、細部ではなく、大きな全体に向かっている。彼はこう語る。「私は日本人ではなく、ひとりの人間としてお話しているのです」。


(ターゲスシュピーゲル紙 2010年8月5日。翻訳に 際しては敬称略)
http://www.tagesspiegel.de/weltspiegel/ein-opfer-bricht-sein-
schweigen/1897420.html


外林秀人/ベルリン通信−2010年9月1日 発

広島・長崎で被爆した“石”を埋め込んだ追悼碑
 
ポツダムの地に建立



広島・長崎の被爆石を埋め込んだ “追討碑” 手前の四角い石は広島、向こうの山形の石は長崎で被爆した石
共に折鶴がかけられている

日本語の碑文

1945年8月6日と8月9日に
広島と長崎に投下された原爆によって
犠牲となった人々を追悼して

連合国によるポツダム会談が
1945年7月17日から8月2日まで行なわれ、
その間、アメリカのハリー・S・トルーマン大統領が
正面にある邸宅に滞在していた。

1945年7月25日、
アメリカ大統領の同意の下、
 
ワシントンから軍の原爆投下命令が下された。

原爆の破壊力は、数十万人の人々を死に追いやり、
人々に計り知れない苦しみをもたらした。

核兵器のない世界を願って


2010年7月25日の落成式で、ポツダム市に追悼碑は献上され、市の管轄になりました


7月25日に被爆石入りの追悼碑の除幕式があり、すでに一ヶ月経ちました。300人(或る新聞によると400人と言ってま す)のベルリン、ポツダムの人々が集まり、追悼碑は正式にポツダム市に寄贈されました。お天気にも恵まれ、メディアの関心も最高で、大成功でした。8月6日の原爆投下65周年にも関連し、ベルリ ン、ポツダム、南ドイツの新聞のインタビューが続きました。日本でもいろいろ報道されたようです。

慰霊碑の芸術監督は、友人の藤原信氏に頼みました。彼は1938年岐阜で誕生。京都国立美術芸術大学で学び、1966年フランス政府奨学生でパリに留学。19 67年ウイン、1972年ベルリン芸術家プログラムの奨学生。1 974〜88年ベルリン芸術大学で教鞭。1988年ハノーバーバー造形芸術専門学校、広島市立大学で教鞭。住居:ハノーバー、ノルウエー。

慰霊碑の構想は4個の石からなっています。

1)  大きな石、約36トン、ノルウエー産
2)  大きな石、約3〜5トン、ノルウエー産
3)  広島の被爆石、約100キログラム
4)  長崎の被爆石、約220キログラム

藤原が4個の石を自分で探しました。総工事費は約400万円で、1)の石だけで、半分の200万円を必要とします。募金で200万円集まり、36トンの石を放棄すべく藤原と交渉したのですが、どうしてもと言う事で、彼の寄贈となりました。私の募金は、約60万円ぐらいでした。

大きな石の前所有者ルンド氏は、ノルウエー産の美 しい、興味ある石を売買しているルンド会社の社長です。ルンド氏は、二人のお伴を連れ、落成式に参列され、ポツダムに置かれた石を満足に見ておられました。

写真は郵便で、別便で送ります。

上述したように、いろいろのインタビューを受け、いろいろな記事になりました。その一つが、8月5日のベルリンのターゲシュピゲ ルでした。その第3ページ(インタビューのページ)の全ページ(A3より少し 大)記事が出ました。インタネットでオンラインでも読め、コメントをする事が出来るようです。ブログと言うのですか・・・?。167のコメントが入り、いかに関心が高いか解り ます。内容が面白く、
お互いの間で議論が始まります。新聞の記事は、私の体験談が中心で、田邊さんのDVDは使っておりません。

記事、全コメントを日本語に訳したら、面白い読み物になりそうです。新聞社に問い合わせたら、投稿者の名前を隠す条件で許可されました。

9月29日にハレのナオムブルグ(Naumburg)のインタナートで話をします。学生達は、今年8月初めから、2週間日本に滞在 し、広島、長崎の式典に参加し、多くの人と話し合い、私の話し合いを、締めくくりにするようです。彼等が日本でどんな印象を受けたか? 私の話をどのように受け止めるか?興味ある事で、感想を連絡して頂きたく、お願いす
る積もりです。

数日前、北ベルリンの学校の先生から便りあり、学生(13、14歳)が夏休暇で新聞で私の記事を読み、学校に持ち帰り、話題となり、みんなの意見で私の話が聞きたいと言ってきました。10月7日はウィンで、話をするので、10月末になるでしょう。

何れにせよ、今までは、リプシュタトとオスナブルケの学校だけでしたが、もっと広く、私の体験談をまとめられるようです。

(外林)


外林秀人/ベルリン通信-2010年5月16日 発

リップシュタットからの便り―

「広島と長崎への追悼」講演会に併せパネル展示会を開催
(2009年6月22日〜6月25日・講演会は6月24日)

リップシュタット独日協会“柔(やわら)” 理事長:ステファン・グロスクロイツ/2010年3月20日

 

左:「広島と長崎への追悼」パネルと、右:紹介記事
写真:左から、ギムナジウム校長→リップシュタット独日協会長・グロスクロイツ氏→外林教授→外林夫人→ギムナジウムの先生

リップシュタットは人口約6万7千の町である。2003年末に、私はリップシュタット独日協会“柔ら(やわら)”を創設した。私は子供の頃より柔道の訓練を始めており、日本文化と初めて接触した。協会の理事長として、 国家、民族、文化、芸術、スポツを通してとドイツと日本の相互理解を深めるように努力している。現在48人の会員がいる。

2008年末に、或る雑誌で外林教授のことを書いた記事を見つけた。それによると彼は広島原爆被爆者で、ポツダムに記念碑をつくるべく努力している。直接交渉で我々の招待を心よく受け取り、2009年2月27日リップシュタットのヨハネス教会で彼の講演会をおこなった。

講演は、彼の体験談に引き続き、DVD“広島私の家はどこに?”を上映された。講演後アトムエネルギ、核兵器等 について、活発な、興奮した討論があった。
地方の新聞は、講演を非常にポジティブに受け止めた。その反響の結果、2009年6月24日にリップシュタットのブロテスタント・ギムナジュムで2回目の講演を
ることになった。

講堂で300人の男女学生が外林の体験談を聞き、最後に質疑応答があった。
外林の講演と関連して、この学校で、“広島長崎”の移動原爆展が開催された。それは核戦争防止国際医師会議の会員である医師ゾンナベント博士の援助によるものだった。

彼が、リプシュタットの教会での外林教授の講演を聞き、講演と展示展をコンビする案が生まれた。グロスクロイツは学校で、生徒達と折り紙で鶴をおり、サダ子に習い、千羽ほど作り、平和のシンボルとして、広島祈念館へ郵送した。

外林教授の体験を、人々に、特に若い人々に伝えたく、それは私の重要な願い事であり、それの手伝いが出来た。外林教授と知り合った事は幸運であり、感謝している。

*ステファン・グロスクロイツ理事長からの便り(抄訳・写真/外林秀人)

講演会を聴いて・・・生徒達が折った“千羽鶴”は“広島”へ・・・!

 
リップシュタットでの講演会(左)と生徒達が平和への祈りをこめて折った“千羽鶴”(右)

<講演会・感想文集のページへ→>


外林秀人氏の講演活動・・・欧州の新聞(メディア)は何を・どのように・伝えようとしているか・・・

Thuringer Allgemeine   WEIMAR   Dienstag,1.September 2009
  <チューリンゲン・アールゲマイネ>   ワイマール 2009年9月1日(火曜日) 所載

体験者が広島について語る

〔記事・抄訳〕
1945年8月6日の広島での原爆攻撃の最後の体験者との出会いで、独日協会が案内状を出している。外 林教授は16歳の時、地獄を体験した。

ワイマ
“広島と長崎への追悼”の題目で、体験者、外林教授 79)が、木曜日、ワイマルホルのゼミナルの建物 で、1945年8月6日と9日の原爆攻撃について話をする。
外林は、広島で原爆が破裂した当時16歳で、奇跡 的に生き残った。地獄が勃発した時、彼は爆心地から1.5キロメタ離れた学校にいた。彼の日記によると、彼の母を、友達を、探し、いずれも死体として見つけた。
50
年後に、永年の沈黙を破り、広島の体験報告する決心をした。
それは、このような出来事は決して忘れてはいけない。そのような想像に絶する出来事を二度と起こしてはならない。
1965年来ドイツのベルリンに住み、工業大学並 びにマックスプランク研究所で仕事をしていた化学者は、このたび、ワイマル独日協会の講演会に招待された。
更にフィルム広島も上映され、講演を補足した。
最後に聴衆と質疑応答。講演会は木曜日19時から。

写真体験者:50年、外林秀人教授は広島の思い出につ いて話さなかった。彼はその事を、木曜日、ワイマルで話す。
(記事抄訳:外林)


Thuringische Landeszeitung  Dienstag, 1.September 2009
  <チューリンゲン地方新聞
>  2009年9月1日 所載



忘却に反して
体験者 外林秀人教授が原爆投下について報告する

〔記事・抄訳〕

 < ワイマール>

過去を知っている人だけが、将来を切り抜けとゲテがかつて強調している。
しかし誰も歴史の扉を、個人的に体験した人間、今日でも依然として感動するのだが、その人のみが、見識を持って開く事が出来る。

体験者の経験報告は非常に貴重のもので、生の歴史授業が出来ると、イングリッド・バウハウス(ワイマル独日協会副会長)が、9月3日木曜日にある外林秀人教授のワイマールの講演会の特殊性を述べている。

当時16歳で広島の原爆投下を経験し、精神的に深く傷つけられた。彼は50年後に、沈黙を破り、話をする
決心をしたのは、そのような出来事が二度と起こらないように、忘れ ないようにするためであった。彼はパキスタンや北朝鮮の原爆所持を心配している。
1991年に創立したワイマル独日協会は、この マで、若い人々を感動させ、将来の核のない世界に貢献したいとの考えを持っている。

教育庁はこの講演会を催し物予定表に取り上げた。ワイマル有限会社は、このテマを重要と認め、ワイマルのゼミナルの部屋を無料で提供した。

広島(1945年8月6日)、長崎(1945年8 月9日)の原爆投下の日が、また回って来た。
外林秀人教授は、1965年以来ベルリンに住んでいる。
ワイマルでの講演予告で書いている。「私は長崎で生まれ、広島で育った。16歳の時、広 島の原爆投下に遭遇し、助かるが、母を失った。原爆投下により、10万の人が死亡し、多くの人々 に苦しみを与えた。

彼の講演で、自分の体験を話し、更に約30分のフ イルムを上映し、その後質疑応答。
1945年7月24日に、ポツダム会議に参加していたアメリカ大統領トルマンが、ここより、原爆投下の指令を 発信した。
ポツダムのトルマンの建物の前の広場を、広島 広場にし、記念碑を建てる運動があり、彼はそれに協力し、募金運動をしている。(記事抄訳:外林)


外林秀人―「ベルリン通信」・Sep-2009

平和の音楽会(8月5日)
18時30分より、ベルリンの日本大使館の大広間 で、講演会と音楽会が開催された。
神余(しんよ)隆博大使の挨拶の後で、元内務大臣エゴンバ(1922年生まれ、元大臣、社会党)が講演 をした。約140の出席者は外交官、外務省の人々が多く、バのドイツ語の講演に英語同時通訳がついた。興味ある講演で、オバマ大統領のプラハでの演説を、ロシアのメディヂュウ大統領もそれに同意した事を喜んでいた。この両国なしでは、他の国々が、この方向に、納得する前進は不可能であろう。この際、日本の対応が特に重要であり、時間は切迫している。
それに引き継ぎ、東京音楽芸術大学の音楽家による 音楽会となった。
このような8月6日の原爆追悼会は、大使館として 初めてで、大使のご好意に感謝する。

ベルリン平和の鐘協会(8月6日)
毎年することだが、8月6日に、ベルリンの中心部 、フリドリヒスハン区の公園の池の側の釣鐘堂に集まり、核廃絶、世界平和を祈念している。
私が、6回鐘をつき、会が始まる。今年もよいお天気で、100人ぐらい参加していただろう。ベルリン平和の鐘協会は、今年で10周年を迎えた。

“フェルト市での講演会”(8月12日)
8月12日、フェルト市長の招待で、フェルト市のシュパルカッセの6階の広い広間で、100人位の前で、講演をし、募金をして、400位集まった。実際の招待者は、加藤邦彦(彫刻)、温子(絵画)の御夫妻であり、7月15日に日本国外務大臣賞を日独文化交流の貢献で受賞された。

“音楽 21(8月16日)
ハノ郊外の公園での近代音楽祭で、“黒い雨”( Mayako Kubo 作曲)が演奏され(11時30分)、その際、原爆体験を話す依頼があり、日帰りで参加した。

エッセンでの講演会(9月1日)
今年初め、リップシュタトで、私の講演を聞いた 。ミュチング博士(禅マイスタ)からの依頼で、エッセンでの講演会が実現した。会場はカディナル・ヘングスハウスの禅道場の部屋で、9月1日 の“瞑想の時間(11時から12時)”の後、講演をした。広島で、爆心地から1200メで被爆したエノミヤラッセル牧師の足跡後を追う旅行団体で、10月17日 に、この人々と広島で再会する。

ワイマルでの講演会(9月3日)
10月3日、ワイマル独日協会の招待で、ゼミナール専用の広間で、約100名の聴衆の前で講演した。募金をして、350集まり、 大成功であった。


外林秀人−「ベルリン通信」・Aug-2009

国連フェスティバル/ベルリン・ブランデンブルグ門 と グリブニツ湖での“とうろう(灯篭)流し”

 
ポツダムのグリブニツ湖畔での「とうろう流し」/平和と核廃絶の願い(祈り)を込めて


2009年7月25日は、ベルリンのブランデンブルグ門と、グリブニツ湖のとうろう(灯篭)流しで話をする記念すべき日であった。

ブランデンブルグ門
7月25日、国連フェスティバル(祭り)が、ブランデンブルグ 門で開催された。
それに関連してパリ―モスコー間の平和自転車行進(7月4日から8月25日)も行われた。
これは2006年以来のもので、東西文化の異なる国々、フランス、ルクセンブルグ、ドイツ、ポランド,リトアニア、ロシアを通過する盛大なイベントである。
そのモットは、第二次世界戦争の勃発70年、ヨーロッパに設置されている新しいミサイルの排除、平和のための新しいエネルギー、二度と戦争をしない、二度とファシズムにならない、武器のない平和などである。
祭典は朝9時に始まり、21時に終了といったマンモスプログラムで、中でも“ひろしま”は中心テーマであった。

ブランデンブルグ門の西側に舞台をつくり、舞台の上で、討論、音楽演奏が行われた。
12時に平和行進の自転車グルプが到着し、ベルリンのサダ子合唱団が迎える。
12時15分から、私とフロリヒ(ひろしま広場をつくる会の理事長)、カザフスタン大使館の公使が舞台に上がり、ブラウン(反核国際法律連盟)の司会 のもとでスピチをした。
私は、広島で被爆したこと、原爆のない世界を期待するとを話した。フロリヒは、ポツダムにあるヒロ シマ広場に記念碑をつくることと、夜、ポツダムでの 私の講演、“とうろう流し”があることを話した。
カザフスタンの公使は、原爆のテストで汚染が酷原爆の無い地域を提唱していることを話した。
次いで、国連楽団 “ひろしま”と名付ける 曲の演奏を始め、私に小さい白鳩を渡した。曲の最後に舞台より離して、平和の鳩が飛び去りわれわれの仕事が終わった(1245分)。
次はベトナム、アフガニスタン、エチオピア、パレスチナ、イスラエル、アフリカの問題と、21時まで続く、マンモスのプログラムであった。

グリブニツ湖の“とうろう流し”
ポツダムのグリブニツ湖畔に、1945年の夏、ポツダム会議の際、トルマン大統領が滞在した館がある、その前の広場を、ひろしま広場名付け、そこに 記念碑をつくろうとする会がある。
そこより100メトル離れたところに電車のグリ ブニツの駅、並びに船着き場がある。
福本さん(日本テレビの特派員、会の理事)の発案 で、船着き場でとうろう流しの行事を7月25日20時から行った。
ポツダム並びにベルリン独日協会、駅の飲食店、船会社などが後援してくれ、テントを張り、長いベンチを並べ、飲食する人々も あった。50人位参加者があったであろう。
ベルリン独日協会の合唱団も来てくれ、日本の歌を 聞かせてくれるなど、雰囲気を盛り上げてくれた。
21時から私の原爆体験の証言を
した。その後、とうろうに火をつけ湖水に浮かした。とうろうは、最低5ユ?でお買い上げいただいた。お天気を心配であったが、風もあまりなく、天候にも非常に恵まれ、“とうろう流し”は大成功であった。これからは毎年の行事としたいものである。
私の体験談は、ヒロシマ広場をつくる会ホームページ
www.hiroshima-platz-potsdam.de
の日本文の原爆の体験を語るに全文が掲載されている。
(2009年8月1日 外林秀人)


外林秀人-「ベルリン通信」・May-2009

“ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会”の紹介と外林秀人氏の被爆体験を語り継ぐ講演活動
<広島と長崎への追悼>


  「広島と長崎への追悼」 講演会と活動の記録
日 時 場 所 主催団体 備 考
 <2007年>
2007年11月1日 ベルリン日独センター 独日協会ベルリン・他
2007年11月7日 ベルリン工科専門学校
<2008年
2008年2月14日 ハノーバー市役所 独日協会 ハノーバー・他 ・ハノーバーと姉妹都市提携25年を記念して
2008年4月8日 リューネベルグ リューネゲルグ独日協会
2008年4月9日 リューネベルグ リューネベルグの高等学校 ・16〜18歳の生徒300人
2008年5月7日 ベルリン工科専門学校
2008年6月25日 ハンブルグ商工会議所 ハンブルグ独日協会
2008年6月27日 オルデンブルグ オルデンブルグ独日協会
2008年8月3日 ボンのルター教会 ボン独日協会
2008年8月28日 チューリヒ(スイス) 生き証人達のフォーラム
2008年9月1日 オスナブリュック オスナブリュック独日協会
2008年9月8日 ミュンヘン ミュンヘン独日協会
2008年9月9日 レーゲンスブルグ レーゲンスブルグ独日協会
2008年9月11日 ブレーメン ブレーメン独日協会
2008年10月4日 ウトレヒト(オランダ) 日蘭対話の集い
2008年10月16日 カールスルーエ カールスルーエ独日協会
2008年11月3日 ハレ ハレ独日協会
2008年11月4日 ライブチッヒ ライブチッヒ独日協会
2008年11月12日 ベルリン ベルリン工科専門学校
2008年11月26日 フライブルグ フライブルグ独日文化協会
2008年11月27日 ドナウエシンゲン ドナウエシンゲン独日協会
2008年12月16日 ハイデルベルグ ハイデルベルグ大学日本研究所
<2009年>
2009年2月12日 モンテッソーリ ニュルンベルグ市文化局 ・モンテッソーリ学校 生徒30名
2009年2月13日 ニュルンベルグ公民館 ニュルンベルグ市文化局 ・ニュルンベルグの中学生徒 150名
2009年2月27日 リップスタトの中学校 リップスタト独日協会
2009年2月27日 ヨハネス教会 リップスタト独日協会
2009年4月3日 シュトウットガルト・公民館 バーデンウェルテンベルグ州独日協会
2009年5月6日 ベルリン ベルリン工科専門学校
2009年6月24日 ギムナジューム リップスタト独日協会
2009年7月25日 ブランデンブルグ門 国連祭り
2009年7月25日 ポツダム グリプニツ湖 とうろう流し
2009年8月6日 フェルスの復活協会 フェルス市
2009年8月12日 フェルトのシュパカッセ フェルト市
2009年8月16日 ハノーバーの庭園 音楽 21
2009年9月1日 カーディナールヘングスハウス エッセン
200年9月3日 ワイマール ハレ ワイマール独日協会
2009年10月12日 アステールプラザ(広島) 広島交響楽団
<2010年>
2010年5月20日 ハレ独日協会




科学者として・被爆者として・・・ドイツを中心に “まこと” の ヒストリーを語り続ける
外林秀人氏 の 講演活動の記録

<ドイツからの便り> May-2009より
“ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会”の発足から、講演会 “広島と長崎への追悼”の歩みをふり返って・・・!

<2007年>
2007年11月1日に、第1回の講演会をベルリ ンで行った。
後援者を誰に頼むか、会場はどこにするか。独日協会ベルリンと将来研究所(クライビッヒ所長と懇意で、頼む)の共催で、“べルリン日独センタ”で行う事になった。

どれぐらい参加者があるか、どの部屋 にするか、前日までの希望者申込み締め切りにしていたので、まさに未知と不安のままでのスタートだった。でも、開演になると一番大きな 部屋(定員200名)が満席になるような状況であった。新聞をみたとか、ラジオを聞いたとか、また永年会ってない多くの知人たちも馳せ参じてくれた。

被爆による体験談は、ファイルに日本語、ドイツ語で書いたもの投影し、私が日本語、シュミット女史がドイツ語で話を進めていきました。その後“グランド・ゼロ”のDVD(1時間)を投影。、フロリッヒ理事長 が“ポツダムヒロシマ広場をつくる会”の趣旨説明、紹介をして募 。協賛・募金の箱を手渡しながら、18時から時間切れ21時までの3時間にわたり熱気溢れる討論が終わった。

<始めの頃と現状とを比較すると次のような違いがある>
1.講演題目について:
   はじめの数回は、“ヒロシマの後にくるも の”(Zukunft nach Hiroshima)であったが、現在ではテーマを“広島と長崎への追悼”に  固定している。
2.DVDが一時間は長過ぎるので、国連用36分のものを使用している。
3.体験談の後に母、家族の写真、原爆写真を若干 みせている。
4.体験談のファイル、DVDをすべて携帯用ノ ブックに挿入。

<2008年>
2008年2月14日にハノ
の市役所で、独日協会ハノその他の共催で、広島姉妹都市提携25周年を記念して講演会をおこなった。協会長 シャトをよく知っているので、私から頼んで実現したものである。

2008年4月8、9日にリュネブルグで独日協会とギムナジュムで2回講演会をした。ゲバ 会長とパーティーで知り合い日時を決めた。

2008年5月頃、日独協会ベルリンのシュミット 女史の提案で、ドイツの独日協会にメメールを送り、私の講演会の宣伝をしてくれた。それがすごい反響を呼び、2008年の殺人的プログラムが誕生した。
講演をするとロカルの新聞、インターネットでも取り上げ、それが更に宣伝となり、スイス、オラ ンダから照会があった。

8月28日スイスのチュリヒで、“生き証人達の フォーラム”に招待された。

10月4日オランダのウトレヒトで、“日蘭対話の集い”に招待された。

各地で、それぞれ感銘深いことがあったが、それは 後日詳しく書く事にする。

9月1日オスナブルックでは特筆すべき事があった。オスナブルック大学の日本研究センターと独日協会オスナブルックの共同招待で、スイスからの帰り道に寄り、講演会を開催した。大学の図書館付属の60席位の講義室で行われた。開講の10分位前に、突然20名ばかりの男女の若者が聴講に入って来 た。急いで携帯椅子を入れたが、不足で床に座る人もいて超満員となり、15時の開講が少し遅れて始まった。会の後で、一人の男性が話しかけて来た、学校の先生であり、若者(職業学校の生徒)の引率者であることがわかった。
先生の指導で、学校の政治の時間の
代わりに講演を聞きに来た由。若者達の感想が知り たいと希望を言って別れた。それから数ヶ月後に感想文 が送られて来た。
グルプに分かれ議論をして、その結果を手書きでレポトしてきてくれた。

その一つ:
 外林先生、
 ベルリンに無事にお帰りになられたと思います。オスナブルックを少しは気に入りましたか。2008年9月1日にオスナブルックの大学での講演は非常に感動的で、いろいろ考えされました。この手紙で我々の感じたことを先生にお伝えします。
我々は、あなたの体験を聞き、感動しました。そして都市から都市へ移動し、人々に、物の無常を話されました。それには勇気が必要です。私達はあなたがとても強い個性をお持ちと思いました。

お母さんの死に、いかに対処されたか、感動しました。決して全ての人に出来ることではありません。その意味で、あなたはわれわれの学級の尊敬を受けられました。
最後に、あなたの興味ある、感動的な講演に感謝します。
お忙しいでしょうが、何時かご返事が頂ければ嬉しい です。
親愛をこめて。

BFS 1a
! (クラスの名前)
イラ ユリア
カタリン
アン-カタリ

こんな手紙が、長いものもいれて7通、グルプの写真も添えてあった。12月には先生がベルリンに来られ、再会していろいろ話をすることができました。

日本研究センタの副センター長、カルメン・シュミ トは、ハイデルベルグ大学の日本語研究所に、私の講演を推薦してくれ、
2008年12月16日に実
現した。


2008年10月4日に、オランダのウトレヒトで日
蘭対話の集いで招待講演をしたが、新聞、インターネットの宣伝力で話し合いが始まりました。

<2009年>
2009年2月12日に、ニュルンベ ルグ市文化局の企画したインターネットによる学校間 の国際交流で、私を講師にしたのもインターネットが関与しており、ドイツで広島について話す人とインタネットに問うと外林だけ出て来たそうです。芸術家の加藤夫妻も現地にお住まいで、ミュ ンヘンの日本総領事館より私の住所を聞かれており、いろいろな企画を考えておられます。おそらく8月はニュルンベルグでしょう。

2009年2月27日にリップスタトで、独日協会 リップスタトの招待で講演会をしました。
招待を受けてリップスタトを知った訳で、自動車の地図で探し、やっと見つける状態でした。電車で行くにしても幹線からはずれて、駅も支線となります。

27日に2回、高等学校と教会で話をしました。学校の会の後、別の学校からの申し込みがあり、6月にもう一度リップスタトにくる事になりました。教会は音響効果もなかなか良く、気持ちよく話が出来た。

一人のお医者さんと知り合った。彼は反原爆運動をやっており、広島、長崎原爆展を企画しており、6月17日エヤフォトで原爆展が始まり、その開所式に招待されたが、彼の提案である。

エッセンから来られたミュチング博士から、私の講
演に感銘し、是非エッセンでもしてくれないかとの要請受けた。
彼女は禅マイスタで、9月1日瞑想の日の午前遅く私の講演を依頼した。広島との関わりは、広島で爆心から1200メーターで被爆し、その後永年日本に住んだエノミヤラッセル牧師との関係によっている。

偶然だが、彼女達の団体 が10月16日から18日まで広島にきて、日本で の再会が出来ることになっている。

2009年4月3日 外山茂樹先生も出席された、シュットガルトで、独日協会バデンヴュテンブルグの主催で講演会が開催された。60人くらいの聴衆のうち割合に若い人がきていた。
会の後、ベック-デイム女史と話し合った。シュットガルトのギムナジュムで17年間日本語を教えており、1992年から8年間東京のドイツ学校で教 師をしていたとのこと。若い人達は彼女の引率によるものであった。学習にDVDを使いたいからコピが欲しいとのこと。
彼女は、ドイツ語圏内の日本語教師組合の長をしており、私の住所を公表してもよいかの質問を受け た。DVDの制作者田辺様から、営業上でなけれ ば、コピをしてもろよしいとの許可をうけているので、その返事として、コピを送り、配布した 人々には誓約書にサインするようお願いした。

一人の女子学生は、私の講演よりインスピレーションを受け、マスター論文のテマとして、ポツダムに建設予定の広島長崎記念碑を取り上げた。その後ベルリンに 来て、いろいろな人々とインタビュして資料をあつめていました。

2009年10月11日に広島で体験談を話す事になりました。

以上のように、ドイツ原子力物語の一部に、私の体験談を書き、それも外山さんからの強制で、いやいやで書いたものです。名古屋大学での講演、ベルリンでの第1回講演会と、宇田川さんの言われ る“願い、融和、祈り”となって進展を体験しています。

5月25日の話し合いの材料となるべく要点のみ書き留めました。ご判読ください。
(外林 秀人




編集部より・・・参考資料紹介
Reference

「核分裂絵巻―ベルリン・ヒロシマ・21世紀」」

Von Dahlem nach Hiroshima
Nuclear Fission:A Picture Scroll/Berlin-Hiroshima-21st Century
Die Rollbilder ueber die Geschichte der Kernspaltung

原画・著作・編集:外山茂樹(名古屋大学名誉教授)
企画/制作:名古屋大学博物館
Edited by Dr. Shigeki Toyama (Emeritus Professor of Nagoya University



外林秀人-「ベルリン通信」・Jun.2008

人類が共有すべき痛恨の歴史の目撃者・科学者・外林秀人氏の講演活動を伝える“The Asia Pacific Times/December 2007”

外林秀人(Sotobayasi Hideto)氏・1929年生まれ、京都大学を経てマックスプランク研究所教授、ベルリン工科大学教授、
1994年退職ベルリン在住、ベルリン日独センター評議員。1945年8月6日広島で被爆、広島の原爆手帳所持。
詳細は「ドイツの原子力物語」外林秀人・外山茂樹訳編著.参照

「ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会」講演活動の記録

●先月、4月8、9日に、ハンブルグの南50kmにあるリューネベルグ(人口:7万)  の独日協会の招 待で2回講演をしました。
8日はリューネベルグの水道塔(昔は、町の中心地 に塔を造り、水を塔の上にあげ、水圧をつけ、各家庭に給水した)の5階にあるロマンチックな部屋で 話をした。80人位の聴衆で満席で、半分が、 独日協会の人だったと、リューネベルグ  独日協会会 長のゲバールさんが言っていた。
いつもの事ながら、私の体験談、DVD”ひろしま”の 上演後に、「ポツダム・ ヒロシマ広場をつくる会」の副理事であるジャーナリスの福本さんがベルリンから来てくれ、ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会 の主旨を説明し、最後に募金をした。

会は19時30分から始まり、2時間経っても質 問、討論が終わらず、会長の意向で、会を終了した。
ローカルの新聞がインタビューをしたり、会場に来 て、非常に好意的な記事を書いてくれた。

●翌日、9日午前10時から、ゲバール氏の娘さんが在学 しているリューネベルグ の高等学校の大講堂で、 16〜18歳の生徒300人に話をしました。みんな緊張して、静粛に話を聞いてくれました。私の体 験談、DVD”ひろしま”の上演後に、生徒20人位 が、壇上に上がり、各自が、反戦、平和を祈念する スローガンを叫びました。非常に印象的で、相当準備したと思います。

後日先生からメールで、生徒達 は、相当なショックだったようで、校内新聞に記事 を書いた様子ですと、連絡ありました。しかし、何でショックを受けたのか、校内新聞の記事など、十分の資料が集まっていないので、纏まり次 第、後日又報告します。最後に質疑応答がありまし たが、12時になり会は終了しました。募金はしま せんでしたが、印象的な、有意義な会でした。将来 機会があれば、又やりたい会です。

●次の講演会は、6月下旬のハンブルグ、オルデンブ ルグで、ベルリンから電車を利用して一周するつも りです。

昨年11月1日に語り部の仕事を始めたが、次の予定表 に一括しました。

●反響があまりにも大きく、我ながら驚いている次第 です。このスケジュールをこなす為には、相当な体 力を必要とし、7月は休養の月としています。ベルリン独日協会も、この活動を認め、今年の年総会 で、名誉会員の賞状を私に授与しました。

●募金は順調に進んでおり、ベルリン、ハノーバ ー、 リューネベルグの三回の講演会で、約1000ユーロ(日本円で約15万)がすでに集まってお り、この調子で今後進んでいくと今年中に、記念碑 建設費用は捻出できそうで、理事に、具体的な案を 検討してもらっています。

●予定の講演旅行を遂行するためには、体力が必要で 健康に注意して、日々を過ごしています。では、また・・・。(外林秀人)

<講演会 ”広島と長崎への追悼”>

ベルリン通信・No.2-<2008年2月28日>
<講演活動報告>:

●2月14日、ハノーファーで講演会 開催

 ハノーファー・ヒロシマ姉妹都市提携25周年に関連して、私の講演会は、ハノーファー市、独日協会ハノーファー、ハノーファー日本人会の共催で、25年前、姉妹都市契約式典が行われた、ハノ-ファ-市役所の素晴らしい会場で行われました。

 ヴァイル市長自身が、挨拶から、最後の議論までの2時間にわたり在席して面倒を見てくれました。25年前のシュマールシュテク市長も、夫妻で出席され、会の後、挨拶に来られました。
 ハンブルグから日本領事館の人も、来ていたとのこと。何れにせよ超満員で200人位でした。

 36分のDVDは大変好評で、体験談および、ポツダム,ヒロシマ広場をつくる会の紹介、討論のプログラムが2時間で纏まりました。
 最後に募金等のごしえんをいただきました。募金箱に420ユ-ロ集まり、満足しました。

 次の講演会は4月8日、独日協会リュネブルグ(ハンブルグの南50Km)でやります。

●この度スイスからも招待が来ています。
 チュウリッヒからで、”生き証人達のホ-ラム−無関心と忘却に抗し−”の会での招待講演で、7月頃やる予定です。

●平和市長会議2000都市突破の記事が、中国新聞に報道されていましたが、日本の加盟都市は広島と長崎だけですが、ドイツは308の都市が加盟しています。ドイツ各地の独日協会が私の講演を希望する雰囲気が出ております。

 この様な状況で、ドイツ語の字幕のDVDを作製して頂けたらと、プロデュ-サ-の田辺様に相談しているところです。
発信 外林秀人

“ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会”発足

ベルリン通信・No.1-<2008年1月18日>
1)”広島広場協会”
 今までいろいろの名前で呼んでいましたが、理事の福本氏と相談して以下のように統一しました:

ドイツ語名: Hiroshima-Platz Potsdam e.V.
日本語名: ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会

概 要:
 ポツダムでは、地元の人たちのイニシアチブで、第二次世界大戦の戦後処理を話し合うために開催されたポツダム会談に際し、米国のトル-マン大統領が滞在していた邸宅前の広場を“ヒロシマ広場”と命名することが、ポツダム市議会で2005年に決議されました。
 この時、トル-マン大統領が滞在していた邸宅から、原爆投下の命令が出ているのは間違いないからです。
 更に、地元の人たのイニシアチブで、その史実を記録した銘板ないし記念碑をこのヒロシマ広場に立てるための募金運動が2006年夏から行われています。募金活動をさらに活発にするため、2007年秋には、”ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会”という団体が設立されました。
 つくる会では、若い世代に史実を伝えるための催し物を開催することも計画しています。

 2)”広島の原爆”の講演会
 この活動に共鳴し、講演会を行い、募金運動をしている。

 昨年、2007年11月1日、独日協会ベルリンと将来研究・技術評価の研究所の共催で、ベルリン日独センタ-で、講演会を行った。

 今年2008年も引き続き、講演会を行う積もり。

 a)2月14日、独日協会ハノ-バ-の後援で、ハノ-バ-市役所で、講演会をする。

 b)10月初めにオランダで講演をする。

 今年初め、オランダから、星野文則氏より”日蘭対話の会”での発表依頼を受けた。彼は、オランダで年に一回の
”日蘭対話の会”という太平洋戦争を考え、平和を願う活動の手伝いしておられる。
 昨年11月11日の毎日新聞、i.t.i.のHPのベルリン通信で、外林が原爆体験談の講演やDVDを上映したことを知り、同じことをオランダでもできないかの相談でした。
 今年は第12回(www.djdialogue.org)で、10月初めに開催される予定。講演受諾しました。

 c)以下記述する予定は、未だ日時が定まっていないブラン:

 昨年末に、NHK”地球アゴラ”(www.nhk.or.jp/agora)の鈴木淑子氏より、番組出演の検討依頼がありました。数回電話インタビュ-を繰り返し、特集”はるばると日本人”  ( 異国の大地に根を下ろし暮らす日本人の素顔に迫る。)で参加したらと話し合い、目下検討中。

 ベルリン大学医学部、ベルリン工科専門学校(昨年講義をしたが、好評で、今年は広いところで多くの聴衆に)、その他ポツダム、ブランシュバイク等が、講演を希望しているが、日時未定。
 何れにせよ、多忙の一年になるようです。  
発信 外林秀人

ポツダムの“広島記念場所”協会

●ベルリン通信・No.1-<2007年10月12日>

1945年7月25日に、ポツダムのグリ−ブニツ湖畔の”トル−マン-ビラ”(小さいホワイトハウス)から、ワシントンの防衛省に、原子爆弾を日本の都市に投下するよう指令が出され、広島と長崎の原子爆弾被爆になった。

2007年7月末にポツダムに ”広島記念場所”協会が創設された。この協会の目的は、記念碑を建てる為の募金活動であり、同時に広島、長崎の惨事を忘れないように、いろいろの行事を行うことである。

外林秀人は、この活動に共鳴し、”広島の原爆”の夕べを、ベルリン日独協会と将来研究-技術評価の研究所の共催で、2007年11月1日にベルリン日独センタ−で講演会を行う。

講演会のプログラム:
語り部:外林秀人。
 1-体験談、
 2-DVD ”ヒロシマ グランドゼロ -あの日、爆心地では”上映(日本語、英語の字幕):原爆が破壊する直前の広島の爆心地付近の町並みや人々の暮らしをコンピュ−タ−グラフィックスで再現した映像作品。
 3-討論

来年はポツダム、ハノ−バ−の独日協会で同じ様な講演会をして募金運動をする予定。
発信 外林秀人


原爆投下日を知らせるトルーマンのメモ

広島の原爆の夕べ:2007年11月1日・ベルリン日独センターで開催

●ベルリン通信・No.2-<2007年11月12日>

”広島の原爆”の夕べを、2007年11月1日にベルリン日独センタ−で、ベルリン日独協会と将来研究-技術評価の研究所の共催で行いまし。

センタ-の一番大きな部屋(定員200名)がほぼ満席になり、18時から時間切れの3時間の21時まで熱心に討論されました。

ポツダムの広島記念場所の記念碑を建てる募金も320ユ-ロ(1ユ-ロ・約154円)集まり、関係者が喜んでいます。

この講演会を日、独の報道関係者が取り上げてくれ、これが大きな成果でありました。

ベルリンの新聞:
"Berliner Zeitung" ...もとは東ドイツの新聞ですが、現在 ベルリンで一番発行部数の多いインテリの新聞で、講演会を紹介。
"Tageszeitung (Taz)"..若者が読み、大きな写真(20x14)をいれて、インタビュ-を掲載。
"rbb" (ベルリン-ブランデンブルグ放送)..5分間のインタビュ-を放送。(知人が放送を聞いて、来てくれました)

会の後、ドイツの新聞を見て日本の新聞が興味を持ち、共同通信、東京新聞、毎日新聞からインタビュ-の希望がきました。

共同:神戸の知人から日経で記事を読んだとのメ-ル、
   鹿児島の未知の人より、語り部の仕事を感銘、激励のメ-ル。
毎日:11月11日の朝刊国際版に掲載。

11月8日にベルリン工業専門大学で話をしましたが、次便にします。

マイトナ-/ラウエの書簡集になかなか手が回らない状態です。
発信 外林秀人

広島−長崎平和学習コース/ベルリン工科専門学校で講義

●ベルリン通信・No.3-<2007年12月19日>

先便で言ったように、11月7日に- ベルリン工科専門学校で講義をしました。2004年から、ベルリン工科専門学校のオイゲン アイヒホルン教授が広島-長崎平和学習コ−スを開講し、毎水曜日に、いろいろなテ−マ−で講義を
行っています。

11月7日のテ−マ−は”被爆者”で、私に話をするように依頼があり,体験談を話すことで受諾しました。
午後3時頃、約30人の男女の学生が集まっていた。一週間前に200人の前で話した時と違い、直接顔を見て話をするので、反応がよくわかり、話を加減できた。
爆心から1500メ−タ−離れた地点で被爆して、未だ生きていること、さらに、被爆者がいろいろな面で疎外されていることが、彼らに新しい知見であったようだ。

”グランド ゼロ”のDVDも上映したが、時間の関係で途中で止めた。
東京、中日新聞のベルリン特派員の三浦耕喜氏が同行し、11月13日の新聞に記事が掲載されている。
来年2月14日は、ハノ−バ−の独日協会の主催で私の講演会を、市役所でやる予定で、ベルリンと同じように多くの人々が集まればと思っている。

後一週間で、クリスマス、2週間で年越しで、ベルリンも零下5度ぐらいで寒くなった。
70年前の1938年ベルリンで、クリスマスの頃、ハ−ン、ストラ−スマンが核分裂を発見した。
”ドイツの原子力物語”の第一ペ−ジは次の文章から始まる:
『1938年12月零下16度の寒さに、オ−デル川の船の運行は停止され、ドナウの流れも凍りついていた。ドイツは寒かった。そしてベルリンもとても寒くなった。』

地球温暖化のせいであろうか、最近はそこまで冷え込まないが。

最後に、来年の皆様のご多幸を祈ります。
発信 外林秀人

―編集部より―
ポツダム・ヒロシマ広場をつくる会

Hiroshima-Platz Potsdam e,V.
“広島原爆の夕べ―2007/11/1/ベルリン” に関する詳報は、Google or YAHOOで 外林秀人 を検索していただけると
主要メディアのHP上でご覧になれます。


製作・発信
アイ・ティー・アイ・学術情報事業部
宇田川嘉久
ITI-cosmos
E-mail: iti-cosmos@iti-cosmos.com

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