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外山茂樹  地球環境を救う“かけ声”たちを総点検

§1「もったいない」というお念仏

(1.1)「もったいない」という「もの」と「こころ」の架け橋

「もったいない」運動という錦の御旗

近頃はカラスもよく鳴くけれども、「地球環境」という言葉が新聞から消える日もないようである。人間の活動が地球環境に与えるという指摘は、すでに1960年代からあった。そして、1988年にIPCC(気候変動に関する政府間パネルIntergovernmental Panel on Climate Change)が、地球温暖化に関する科学的知見を報告している。そのIPCC2007年度ノーベル平和賞受賞ということもあり、世論を大きく動かしている。

1999年には、第3回の気候変動枠組条約締約国際会議が京都の国立京都国際会議場で開かれている。これは先進国の産業や日常の生活から排出される2酸化炭素を削減する数値目標を、京都議定書として決めたことでよく知られている。

この京都議定書に関連する行事に出席するため、20052月にノーベル平和賞を受賞したケニアの環境保護大臣ワンガリ・マータイ女史が来日した。このとき、マータイ女史は日本語の「もったいない」という言葉に感銘を受け、これを世界に広めたいという活動が提案された。

「もったいない」のように自然や物に対する敬意などの意思(リスペクト)が込められているような言葉、また消費削減(リデュース)、再使用(リユース)、再生利用(リサイクル)、修理(リペア)の概念を一語で表せる言葉が見つからないので、そのまま『MOTTAINAI』を世界共通の言葉として広めているという。運動の一環として、写真のようなTシャツも作られた。

「もったいない」Tシャツとフロシキ

「もったいない」という言葉の意味のすばらしさを外国の環境活動家が感銘を受け、これを世界に広めようというのは、大変喜ばしいことである。

マータイ女史は当時の小池百合子環境大臣豊田章一郎トヨタ自動車名誉会長など、政財界の首脳や著名人と会談する一方で、千葉県松戸市の小学校や早稲田大学横浜国立大学北九州市など日本各地で講演し、さまざまなイベントで市民と交流があった。この際、日本の伝統美である風呂敷を「もったいない精神の象徴」と紹介し、小池大臣と一緒に「Furoshiki」をアピールし、風呂敷ブームを巻き起こした。また緑の葉に「MOTTAINAI」と描いたTシャツも売り出された。まさに「もったいない」という錦の御旗が津々浦々に棚引いたのである。

「もったいないばあさん」と環境白書―節約は資源である

「もったいない」という錦の御旗が広く受け入れられたのは、節約は美徳という日本人古来の道徳があったからであろう。

幼児向けの絵本「もったいないばあさん」という本が2004年に発売以来よく読まれているとのことである。日常生活で、ご飯を残さないとか、紙は張り合わせて再利用するとか、歯磨きをするときには水を垂れ流ししないとか、なにげない気配りを絵によって、「もったいない」という気持ちの大切さを教えている。

大人の社会でも、家庭なり事業所の内部で、廃棄物を再利用して外に排出しないようにする創意工夫は伝統的に継承されてきている。環境庁が発足する以前、小池大臣が未だ妙齢の頃の1975年に、総理府は「すでに国民意識は、高度成長下の大量消費、使い捨てから、資源を大切にし、合理的消費を重視する型へと変貌を遂げつつある」として、表のような調査報告書を国民生活白書(1975年版)に掲げている。その頃、同じような調査結果は民間の調査機関からも報告されている。ここでも「節約は資源」というフレーズは素直に受け留められていた。

国民の消費』態度についての考え方
総理府国民生活白書(1975年版)より
(1)もっと節約に心掛けるべきである 35%
(2)今までの使い捨てはやめて物を大切にする 29%
(3)無駄が多く贅沢をしている 10%

社会意識に関する世論調査
総理府国民白書(1995年版)より
年度 心の豊かさ 物の豊かさ 一般的にいえない
1975(年) 36.8(%) 41.3(%) 18.7(%)
1980 42.2 38.8 15.3
1985 49.6 32.9 14.2
1990 53.0 30.8 13.5
1994 57.2 30.0 10.9


しかし、このような発表があったからといて安心はしていられない。日本は紙の消費量となると、アメリカに次いでいつもトップクラスである。手を洗った後、紙で手を拭いて捨てるという方式は、日本ではあまり普及していないので、欧米人より資源節約意識は高いと思っている。それでも紙を多く使うのは何故かというと、それは日本固有の過剰包装のせいであった。稲作文化はわらを使い捨てにし、禊(ミソギ)をするという習慣から、むやみに物を包むようである。

これは上滑りなキャンペーンだけでは効果は空回りに終わってしまうという教訓である。社会構造の潮流、文化の消長をみすえた、根本的なひずみの是正、それに基づいた長期的な教育プログラムが重要である。このことは最後の章で締めくくることにしている。

「もったいない運動」と愛知万博

環境をテーマに愛知県で日本国際博覧会(愛知万博)が開催されたのは2005年であった。開催する前には、今更万博など環境を破壊する無駄な公共事業だという意見もかなりあった。そういった反対も頭にいれ、「自然の叡智」愛・地球博と銘打って3月から9月の半年にわたり実施された。まだそれほど遠くない前の出来事である。1970年に大阪で開かれた日本万国博覧会(大阪万博)は、日本で始めての国際万国博覧会ということで国民的な祭典となった。の2つの万博を比べると愛知万博は、名古屋という地味な土地柄とあって、環境という標語にふさわしく、つつましい目標を掲げて蓋が開けられた。幕を開けてみると評判はなかなかなもので、入場者はしり上がりに増えて最終的には2200万人を越え、目標を軽くクリアーした。事業費も黒字で、それを基金に今ではさまざまな環境事業の育成に使われている。

愛知万博の板張り回廊

ケニアの環境保護大臣ワンガリ・マータイ女史が京都議定書に関連会議に出席のため来日し、「もったいない運動」を立ち上げたのは、この愛知万博開催の少し前であった。それを受けて、開会式に臨んだ小泉純一郎総理大臣は挨拶で「もったいない」に言及し、万博を通じてこの言葉を広めたいと語った。開会式にはマータイ女史も参加し、「もったいない」運動をアピールした。

このように、環境をテーマにかかげた万博ということで、会場の施設を作るのに、できるだけ自然を破壊しないとか、回廊は後でリサイクルできるように木材を使うというようなことが謳い上げられた。そして太古の自然を思い起こそうという趣旨で、シベリアの凍土から掘り出されたマンモスを冷凍室に展示して、万博の呼び物にとした。これは「もったいない」とはあまり結びつかなかったようである。次にその会場から排出されるおびただしいゴミから、「もったいない」について考えてみよう。

(1.2) 2つの万博とゴミの収集

大阪の万博では「先端技術は分別無用」

大阪万博が開かれた1970年頃はどんな時代であったか、思い起こしてみよう。日本の経済は高度成長期に入ろうとしており、これから物が豊かになることによる、バラ色の未来を画いていた。人類が始めて月に足跡を刻んだのもその少し前であった。そして月から持ち帰った石が、大阪万国博覧会のアメリカ館に展示されて、最大の呼び物となった。

この月の石を地球に初めて持ち帰ったアメリカのアポロ計画はどのようにして始まったかといえば、戦争の道具である原子爆弾とロケットの開発競争が東西対立の米ソ間で一巡したあと、大国の威信を賭けたものであった。有人月往還ロケットを1960年代に完成させるという設定は、若きアメリカの新大統領ジョン・F・ケネディーの鶴の一声で決まったのでる。

トップツーダウンの決断によって巨大プロジェクトは動き出し、科学者達は目標に向かって粛々と計画を立て実行し、そして成功させまた。かくして地球上の人々はこの史上最大の科学ショーをテレビを通して目の当たりにした。世界中の人々が、その科学技術の成果に喝采を送り、科学技術に果てしない夢と希望を託したのである。

大阪万博の呼び物展示「月の石」

そのころ当時の通商産業省ではゴミ処理に関する技術開発がスタートしていた。高度成長を迎えて、急激に増え始めた家庭から出されるゴミを始末するのに、これまでにない新しい技術が必要になった。アメリカが宇宙ならば、日本はエネルギー技術開発で世界をリードしようという動きから、サンシャイン計画というスマートな呼び名の大型プロジェクトも企画されていた。ゴミ処理に関する技術開発のほうもこれにならって、「スターダスト計画69」と名付けた。69だから、1970年の大阪万博の1年前である。宇宙開発の成功を目の当たりにして、科学技術の成果に限りない夢を膨らませていた頃であるから、それは時の勢いというのであった。ゴミを星にしてしまおうというスターダスト計画であってみれば、「ゴミの分別は無用です。先端技術が処理します。」と言ってのけたものである。

かくして分別操作の先端を担う技術者達は、さまざまな素晴らしいアイデアを提供し、計画は見事に達成された。しかし、いざこれを都市廃棄物資源循環系に当てはめる段階になると、事はそう簡単ではなかった。なぜならば、一口でいえばこれを受け入れる社会システムが出来ていなかったのである。技術者の忸怩(ジクジ)たる気持ちをよそに、状況は語られることもなく、いつの間にかゴミの分別収集が浮上してきた。

愛知万博では「先端市民は分別バッチリ」

愛知地球博では、「もったいない」運動の掛け声もあり、会場から出るゴミについては、先端市民は分別バッチリとばかり13種類の箱が並べられた。会場では分別の指導員を編成して、時代の先取り人とばかり、意気揚々と活躍していた。そしてこの万国博覧会の成果は万国に広めようと意気込んでいた。終了後、万博の成果は華々しく報ぜられたが、ゴミ分別が、環境問題にどれだけの貢献をしたのか、数量的な解析や成果は、一般向けに報告されることはなかった。マスコミもまた無関心であった。

水をさすようであるが、この愛知万博における分別がうまくいったとしても、これがどこにでも通用するとは考え難いのである。分別の後には処理システムがあるわけで、分別方法と、分別した物を丁度うまい具合に処理するシステムは、国や地域によって千差万別であり、つきつめれば文化、習慣に深く根付いている。集める方の分別だけうまくいっても、それからあとは受け取った方にお任せというケースが多いのである。この2つの万博の間の35年に、高度成長を推し進められた結果、ペットボトルについていえば、国民全体の消費量は実に7倍に増えている。ペットボトルの分別回収が奨励され、リサイクルが環境問題を解決する妙案と謳いあげられると、これでよしとばかり公共の場からみ水飲み場が次々と消えていったのである。


2つの万博におけるごみ収集の考え方

大阪万博の頃、どこの駅のホームにあった流しのついた水道の蛇口、あのいやしの空間はめったに目にすることができなくなり、代わりに登場したのが、飲料水の自動販売機である。これから地球が暑くなってきて、こまめに水を飲まないと熱中症になってしまいますよと警告されている今日、その辺で一寸水を飲みたくなると、ペットボトルが消費されるという仕組みが、実に津々浦々まで出来上がってしまった。「もったいない」はどこへ行ったのであろうか。順を追って追求することにしよう。

自然の知恵「マンモス」は語る

政府の生活国民白書でも報告されているように、国民はずっととこれまで、「物の豊かさ」よりも「心の豊かさ」を求めているはずなのに、物の消費は恐ろしい勢いで増えている。かけ声ばかりが空しく空回りしてしまうのはなぜであろうか。リサイクルについていえば、回収された後どうするかについて、情報交換のパイプがつまっているという現状があるからである。「捨てればゴミ、別ければ資源」というチャッチフレースをよく耳にする。明快でわかりやすいかも知れないが、別けて集めただけでは資源にならないのは分かりきったことである。それがリサイクルといって回収した自治体が、資源回収業者に渡してしまえばこれで資源にしたつもりで、そこからは市場原理でどうぞお好きなようにということになっている。

このようにゴミを集める側と処理する側に不連続性があるのは、前者が公共事業で、後者は市場原理が支配する営利事業だからであろう。全体的にいって、市場原理そのものが、地球環境にとって大きな問題をかかえている。愛・地球博と銘打った愛知万博の呼び物は、「冷凍マンモス」であったが、それからどのような自然の叡智を学び取ったであろうか。大昔の地球の風景、地球環境の変化・・・、そしてどうしてマンモスは滅びたか。巨大隕石の落下という説もあるが、それだけではない。競争に勝った生き物は、欲望にまかせて食べ物をあさり、より強くなるためにどんどん大きくなっていった。そして大きくなり過ぎて血の巡りが悪くなり、神経が鈍くなり滅んでいったのである。凍ったまま長期間展示されていることに感心している場合ではない。その姿は欲望の開放に歯止めを全くかけていない今の自由主義経済に似ていないであろうか。

愛知万博の呼び物「マンモス」が語る自然の知恵

地球上では今、どこの国も戸惑うことなく経済成長を掲げ、大量生産、大量消費の生活へと指向している。「ゼロエミッション」とか「リサイクル」とかいろいろなお題目を並べているが、資源の消費も廃棄物もどんどん増えている。「持続的発展」などといって、無闇に規制を設けたり、取り引きのルールを作ったところで、がけ声倒れに終わることはならないだろうか。これはなんとか収めるのではなく、修めなければならない。それは、少子化で年金制度はどうなるといったような目先の政治問題とか、現在の世界経済の潮流への対応といったようなではなく、人類はこれからどうなり、どうすればよいか、ミレニアム的尺度で行動なければならない問題である。

(1.3)「もったいない」の語源をたどれば

禅問答「勿体無」(もったいない)という「方便

ノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ女史が提唱する運動や、環境をテーマにした愛知万博(日本国際博覧会)といったイベントに結びつけて、「もったいない」という言葉を前節ではとりあげた。さまざまな考え方でさまざまな行動をとる人類が住む地球に、今や一様に受け止めねばない地球の全体的環境に異変が検知され、さまざまな警告が発せられている。環境の異変に原因に大きくかかわっている先進国は、その対策の協議を始めているが、おおよそは科学技術によって産業活動を衰退させることなく解決しようとするものである。一方では、人の心の欲望に歯止めはかけられず、科学技術だけでは解決できないであろうと戸惑い始めている。政治は人の心には立ち入れない。そこで目をつけられたのが「もったいない」という言葉であった。言葉に惑わされないために、ここではそのルーツを訊ねてみよう。

この「もったいない」という言葉は、もともと仏教に由来している。東洋の思想に大きな影響を与えている仏教は、インダス川流域に住みついた農耕民族が信奉したバラモン教を祖としている。釈迦はバラモン教の精神的支配下にあって、多くの人が業や因縁に苦しんでいるのをみて発心し、苦を克服して悟りの道を開いた。

仏教における人間の五蘊(ゴウン)と悟り

それによると人間の存在要素は、図のように色受想行識の五薀(ゴウン)からなり、その要素は絶えず変化し(無常)、不都合なものが現れ(苦)、ままならない(無我)。ところが多くの人は反対の常、楽、我を求める。この対立観念を止揚して「空」の境地に達し、悟りをひらくというのである。ここにおいて、禅寺における極限までに浪費を抑えるような修行は何を意味するか。それは「勿体無(もったいない)」ということである。勿体無とは目の前のものも本来「空」であって、無いものと悟るのである。しかし、無い、といっても存在を否定するものではない。人間が生きるのに必要なものを費ってはならないというのではない。それではそれがどうして「物を粗末にしない」という情操に通じるのか。それは「方便」であるとしている。無いと悟れば必要な分だけ用いるという方便である。

人間が今迎えようとしている地球環境異変への恐怖から開放されるために、こうした「もったいない」という精神に基づくモラルの復活が求められるとするならば、その由来と根本的な意味を、もっと深く理解する必要があろう。

「もったいない」と「吾唯足知」そして「百鬼夜行」

「もったいない」というのは「勿体無」という漢字を当て、目の前の物はなにも無い「空」とする「悟り」のことであると説明した。しかし、実際に人間が生きてゆくためには何か食べなければならない。水も飲まねばならない。呼吸もしなければならない。そのための一時的手段、つまり「方便」として必要な分だけ頂くということが、人を正しく導く手立て、すなわち「もったいない」に叶う行為ということになるわけである。

これだけではなにか漠然として捉え処がないであろう。そこで、京都のお寺を訪ねてみよう。京都の西北にあたる嵯峨野に龍安寺というお寺がある。ここの枯山水のお庭は有名で大勢の観光客が訪れている。その一隅にある蹲(ツクバイ)には、図のような謎めいた文字が刻まれている。これは「吾唯足ルヲ知ル」と読む。足るとは満足のことであり、満足とは欲を満たすことである。欲が唯ならそのまま足るを知ることができるわけで、「もったいない」の心に通じる教義である。

龍安寺蹲

「百鬼夜行図」というのも由緒あるお寺には所蔵されている。16世紀の室町時代に描かれた絵巻で、古い器物が妖怪となって夜な夜な出没する様子が絵になっている。



百鬼宙行

人間の手足がついたお皿や傘が画かれていて、今流行のアニメキャラクターの原型を見出すことできる。正体は古い器物で、古い器物でも大切に使わないと化けて出ますよという、お説教を絵にしたものである。「もったいない運動」で売り出されたマータイ
MOTTAINAITシャツや、小池「もったいない風呂敷」も、使わずにタンスの肥やしにしていると、夜な夜な妖怪に化けて歩き回っていることでしょう。それは「もったいない」ことです。

「もったいない」と同じイスラムの教え「3つの胃袋」

日本人は無宗教だと思っている人も多いが、これから学問をしようとする若い人が天神様にお参りするなど、深層には何も無いわけではない。しかし、多くの人は日常的に関心が薄いことは確かである。イスラム圏から留学生をあずかったときのことである。茶目っ気の多い学生はどこにでもいるもので、禁酒の掟があるのならば、酒の味は知らないだろうと、そ知らぬふりをして飲ましたところ、にっこり笑っておいしいと答えたという。そこで「そうだろう、お酒はおいしいんだよ。」と告げると、くだんの留学生の顔色はにわかに一変した。深い悲しみを満面にあらわし、ただならぬ途方に暮れた様相のすざましさに、今度は仕掛け人の学生のほうが愁傷狼狽してしまった。

そのようなことがあって、工学系の研究室ながら宗教とはなんだろうという議論が学生の間で交わされたことがあった。そして一番簡潔で分かりやすかったのは、「宗教を持たない前は、人は獣だった。」という留学生の説明だったという。

それはそれとして、現在も多くの人の心をとらえている宗教は、キリスト教、イスラム教、仏教、神道など、民族の長いあいだの伝承と言う年輪を重ねてできてきたものである。物を節するという教義はイスラム教にもある。すなわちイスラム教徒は胃袋は3つに分け、1つは食べ物のため、もう1つは水のため、最後の1つはアラー(神)のために空けておくというのである。食べ物と水が同等に扱われているのは、風土による文化の違いを感じさせる

イスラムの3つの胃袋 多文化互啓共生

いずれにしてもこのように考えると、物を節するには宗教がよいかも知れない。しかし、国が関与すると国民皆僧とか、軍国主義時代の国民皆兵、徴兵というようにファシズムにつながるであろう。国家という垣根はもはや邪魔である。

地球上には多様な宗教と価値観を持った人々が共存し交流して生活している。ここでは既成の宗教の行き過ぎた行為規制や排他性は、ときに世界の平和にとって大きな障害になるであろう。征服という人間の愚行は現在その価値や意義を失っているはずである。そして一様に地球環境異変という不気味な恐怖に立ち向うには、多様な宗教や文化習慣をお互いに認め敬愛し平和共存の道を歩まねばならない。国家が対峙して、してはいけないに決まっている戦争すら止められない現在の人類の進化レベルからみて、これは極めて高いハードルであることは覚悟しなければならないであろう。

図の右側に回教寺院の上に書かれたシャラーマはアラビア語の平和を意味する。また同時にあいさつの言葉でもあるという。世界中、平和を願わない人はいない。

(1.4)「もったいない」を測る物差し「エントロピー」

クラウジス先生のもったいぶった数式「エントロピー」

「もったいない」というのは、単に「物を粗末にしない」とか、「無駄使いをしない」とか、質素というような徳目を超えた、禅宗の「悟り」の境地に由来する言葉であることを説明した。しかし、その実践は“吾唯足知”であるというのでは、雲をつかむような話だったかも知れない。それで、唐突ながらここでは、「もったいない」を数式で示すことにしよう。

エントロピーという言葉は耳慣れないかも知れないが、エンジンのような動力を発生する熱機関を設計する仕事の中で生まれている。1855年にドイツのルドルフ・クラジウスが数式化し名前をつけたものである。“en”は「中に」、“tropie”はギリシャ語の「変化」を意味する。表題に「もったいぶった」という、尊大を意味する修飾語をつけたのは、この章が「もったいない」を取り上げているので、言葉の綾として使ったもので、クラジウス先生が尊大ということでは決してない。式の形をかいつまんで図に示した。

クラウジス先生のエントロピー定義式

このあたりを勉強した人ならば、熱力学の第2法則とすぐ分かるのであるが、多くのなじみのない方には、なにかミミズがはったような記号があったりして、拒絶反応を示されるかも知れない。しかし、ここでは絵として形の式を観賞しておこう。現象的にどういうことに関係しているかというと、ここでS という記号で表される「エントロピー」というのは、とりあえず「乱雑さ無秩序の程度」を表すものだと呑み込んでおくことにする。

そして熱力学の第2法則とは、熱は熱いほうから冷たいほうに向かって流れるという自然則で、その逆の現象はなく、その結果「乱雑さ無秩序の程度」である「エントロピー」が増大するということである。そして、熱の移動があるとエントロピーは常に増大し、熱効率
100%という永久機関は存在しないことを式で示している。永久機関というのは、原理的に不可能ということの代名詞であるから、そのことは別に数式を使わなくても理解できるであろう。ここではとりあえず、「不可逆な乱雑さ無秩序の程度」を表す「エントロピー」という量があり、これは熱量を温度差で割ったものであることを頭に入れて、先に進むことにしよう。         

芥川龍之介の「河童」はネゲントロピー

18世紀のイギリスから興隆した産業革命は、蒸気機関の発明によって、人力が機械動力に置き換わったことにより端を発した。熱力学という学問もこうした背景に発展している。そして「エントロピー」という「不可逆な乱雑さの程度」を表わる言葉を生み出したのである。しかし、元に戻らない不可逆な現象というのは、熱の移動現象に限ったものではない。一番身近なのは人の命である。若返りだとか、不老不死の薬などといっても、本当に信じる人はいないであろう。命というのは生物に限ったものではなく、流体力学を講義した経験からすると、一番原始的な生物以前の「命」は渦だという見方もできる。流れの中の発生するあの渦である。空気は地表に対して移動し、水は岸辺に対して移動して流体の中に歪ができると渦が生まれる。一番人目を引く渦は台風である。これは南の海で生まれ北の海で死滅する。その経緯は熱の移動を伴い逆戻りしない点で「命」と同じである。

その運動は今やコンピューターでおおよその経緯は計算できることになっている。計算が出来るとなると、人の発想はどんどん膨らんでゆく。たとえば、時間を逆にすれば台風の消滅から発生に経過を算出することができる。そんなことをして何が面白いというかも知れない。ところが実際に芥川龍之介は「河童」という小説を書いる。これは死んだ河童が生き返り、やがて母親の胎内に戻ってゆく経過が、想像力豊かに書き上げられている。

豊かな想像力を持つことは、科学者にだって大切なことである。時間を逆転させた「ネゲントロピー」というのも、量子力学の波動方程式を導いたエドウィン・シュレディンガーがとりあげている。なにしろ量子力学や相対性原理の世界では、空間と時間をひとまとめにしてしまうくらいであるから、それ位はなんでもないのである。経済学では、価値を生みだす労働をネゲントロピーとみなしている。

まんでもありのエントロピー

さらに、情報の世界にも不可逆現象は存在する。例えばテレビにしても、その映される映像は年々改良されて、解像度が向上している。しかし、絶対に実物通りの映像を送ることはできない。つまり、ここにも不可逆性があり、したがってエントロピーもネゲントロピーも存在するのである。

話が横道にそれたようであるが、この章では「もったいない」ということから、「命」とか「無常」という宗教にかかわることを取り上げたが、科学の世界でも、これに対応する「エントロピー」や「ネゲントロピー」があることを紹介したのである。

「生命力」を「欲望」で割れば「エントロピー」

それを大きくする心が 「もったいない」 その無限大は「悟り」

「エントロピー」というのは熱力学から生まれたが、生命現象という人間を取り巻くさまざまな出来事のほか、宇宙の彼方の現象や、経済学、情報理論などを広く包括的に適用できることを紹介した。「エンロトピー」に関しては、本も何冊か出版されていて、厳密に詳しく説明されている。耳慣れない言葉を持ち出したので話は横道に入ったが、このくらいにして、いよいよ「エントロピー」を使って「もったいない」を数式で表してみよう。ややこしい式ではなく簡単なものである。この節の一番先の節で示したクラジウスの式をもう一度思い出してみよう。割り算1つという簡単なものである。すなわち、エントロピー S は、熱量Qを温度差 割った値である。

ここで、エントロピーとは乱雑さ無秩序さの程度を表すと説明している。言い換えれば人手をかけない自然のままの状態が乱雑さの極限で、このときエントロピーは無限大ということになる。人の心は無の境地、すなわち「悟り」の状態とは、エントロピー無限大が対応していることになる。

それから熱量は生命力に対応している。これがゼロとは無であるから死を意味する。これでは「もったいない」も「悟り」も存在しない。それで「方便」ということで、「生命力」の存在を容認してもらうという筋書きである。

次に、温度差には「欲望」を対応させる。これが大きいと、エントロピーは小さくなり、自然の状態からどんどん遠ざかることになる。つまりエントロピーを出来るだけ大きく保とうというのが、「もったいないという心」を表している。生命力が強い人は欲望も強いかも知れない。しかし、修行して欲望を抑制する力も強いであろう。このようにエントロピーで「もったいない」を測る物差しとすることが出来ることになる。

「もったいない」はエントロピー

この物差しを使って、これからいろいろな環境問題について考えてみよう。
エントロピーがゼロの原点は、欲望にまかせた物質文明の眩いばかりの光源となって照り輝いている。今や人は光を慕う虫けらのように原点に向けて飛び込んでゆくという様相を呈している。「もったいないという心」とはエントロピーの大きい方向、つまり光り輝く原点に背を向けた方向を目指して「悟る」ということである。軽々しい気持ちではすまないのである。「もったいない」というのはよくよくの覚悟がないと、錦の御旗がかけ声倒れの空念仏に終わることが、この式からはっきりと分かるであろう。

*エコロジカル・ユニットを使って・・・

「もったいない」を数値で採点

「もったいない」も遂に数式まできたので、次は計算ということになる。もう沢山だと言わずに、気軽に考えてみよう。
極めて身近な問題である。前のページでエントロピーは「もったいないという心」と一致すると説明した。「もったいない」の後ろに「という心」をつけたのは、「こと」に置き換えて「もったいないこと」になると、無駄な余計なことという意味になるから、ここでは区別する必要がある。分かったつもりの「もったいない」という言葉も、後に「心」をつけるのと、「こと」をつけるのでは、意味が全く逆になることを、しっかり憶えておこう。

さて式であるが、図のマータイ女史のTシャツに書いてあるように

(エントロピー)=(生命力)/(欲望)

である。このエントロピーは「もったいないという心」である。
そして、(生命力)は方便として生きてゆくに必要なエネルギーとしている。これには、エコロジカルユニット(eu:ecological unit)というのを当てはめてみよう。人間1人が1日に必要とする食品エネルギーを2000kcal(キロカロリー)を1eu とし、身近な電化製品や衣食住などが消費するエネルギーの倍数が環境単位数として求められている。その資料の1部を表に示す。生命力を2000kcalとすると、その倍数であるこの数値は、「もったいないこと」の方が当てはめで考察できる。

(表) 身の回りの環境単位数
1日の一般家庭の待機電力 0.5
デスクトップパソコン8時間 0.5
家庭ゴミ一人1日分燃やすと 1.0
焼酎1升 1.0
100ワットの白熱電球1日点灯 1.0
自動車10km走って 2.8
一般家庭1日平均消費電力 5.0
世界平均1人1日エネルギー消費 14.0
新幹線東京から大阪まで1人 22.0
日本人平均1人1日エネルギー消費 60.0
アメリカ人平均1人1日エネルギー消費 74.0
ジャンボジェット東京〜ニューヨーク往復 3000.0
東京タワーライトアップ1晩 500000.0
(荒俣宏監修,「電球1個のエコロジー」,中央法規,2006)より

一方、「もたいないという心」に当たるエントロピーの方には、(欲望)という項がある。示された環境単位数のうち、(欲望)にふさわしい項目として、1人1日当たりエネルギー消費量を選んでみよう。世界平均と、日本ならびにアメリカの数値が示されている。世界平均を100として計算すると、日本は 23点、アメリカは19点。つまりこれが、その国民がどれだけ「もったいないという心」を持っているかの採点結果である。

またNHKでは、ホームページ(/co2)に生活行動に伴う2酸化炭素発生量を掲載している。これも、「もったいないこと」の数値化の1つである。人が1日に息から吐き出す2酸化炭素を1キログラムとして、この数値で割れば「もったいないという心」という悟りの大きさも数字で示すことができる。

*便利-(コンビニ)を掘り起こせば「もったいない」の山・・・!

―待たれる「もったいない経済学」の体系化―

考えてみれば世の中はどんどん便利になっている。恐ろしい程である。真夜中でも一寸食べたいものがあれば、コンビニエンスストアーが開いて買うことができる。そこにはまた暇つぶしの本などもちゃんと置いてある。しかしその裏では、一晩中あかりをつけて電気を使い、タイミングよく品物を届けるために、ガソリンを使って車がはしり回っている。そしてまた売れ残った食べ物はどんどん捨てられてゆく。「もったいないこと」だらけである。エコロジー数を数えあげれば幾つになるであろうか。なにしろ近頃では、「使用期限」や「賞味期限」の改ざんがあちこちで明るみに出て、どんどん捨てなければならなくなっている。「もったいない」という気持ちが仇になっている。規則を決めるほうにも「もったいない」という気持ちをもって、隠蔽やウソがないよう、納得できるようにしたいものである。

一方、「もったいないこと」を削減させる「便利」な手段もどんどん取り入れられている。コンビニの品物も無駄なく配送できるような計算システムができている。インターネットを使えば、手紙のようなものは、届けるという人手やエネルギーが要らなくなる。そればかりでなく、会議などもわざわざ遠くから寄り集まらなくても済んでしまうことが多くなる。

トヨタ生産方式の「かんばん」ジャスト・イン・タイムは、アメリカのスーパーマーケットで売れた分だけ仕入れるという考え方からヒントを得たという。生産作業では@作りすぎのムダA手持ちのムダB運搬のムダC加工そのもののムダD在庫のムダE動作のムダF不良品、手直しのムダを数え上げている。

ムダは「もったいないこと」に当たるエントロピーであり、まさにエントロピー管理生産方式である。孫子の兵法そのものといわれるが、なにかそこには日本の文化の香りも感じられる。「心に火をつけよ」というかけ声で、「改善」に向かって組織が一丸となって力を発揮している。まさに地球はまわる多文化共存である。節約はまさに資源であり、得=徳である。

便利さを追い求めると、「もったいないこと」が留めもなく増えてゆく一方、「もったいないこと」を便利に削減する方法も発達している。いたちごっこをしているようであるが、「もったいない」も数字で表せるようになったことでもある。「もったいない経済学」の体系化がまたれる。

(1.5)科学と文化の行き違いから調和へ

消費大国アメリカでのカルチャーショック

昔の話になるが、留学する機会を与えられアメリカに渡ったのは1960年であった。世界的に高名な先生のもとで研究をすることになり、緊張して乗り込んだのであるが、極めて明るく気さくで開放的な雰囲気に、かえって戸惑いさえ感じた。ティータイムには美人秘書がうやうやしく差し出すカップから、先生は厳かに紅茶などを喫する姿を想像していた。しかし、口が渇けば職員室の廊下の隅にあるチルドウォーターの水栓に口をつけ、すすり飲んでいたのである。

しばらくして先生のお宅のホームパーティーに招待されることになった。夫人が招待された人達とにぎやかに歓談しながら取り仕切る中で、大先生はいそいそとキッチンを応接間の間を往き来されるのを見て、大変なカルチャーショックを受けた。そしてホームパーティーでは、ふんだんに振りまわれる紙のお皿に紙コップ、それから日本にはまだ見られなかったあのふんわりとしたティッシュペーパーも、鷲づかみにして使われていた。かくしてパーティーの後に残った山のようなゴミも、武家屋敷の鎧櫃ほどもある大きなゴミ箱にまとめてポイと捨ててしまえば世話いらずというライフスタイルが出現していた。これなら大先生の勉強時間を削られることもなかろうと安心した。

池田総理大臣と河上社会党委員長

その時代、第2次世界大戦から15年を経て、アメリカは自由主義国家の先頭に立って、新しい時代をリードする勢いのようなものを感じた。成果主義、能率主義を至高とする風潮が台頭し風靡し始めていた。ペットボトルはまだ普及していなかったが、飲みやすくいくらでも飲みたくなる飲料コカコーラが世界のマーケットを席捲しようとしていた。

その頃、日本では池田隼人総理大臣が所得倍増を公約に掲げ、一方野党第1党の社会党は、1日が牛乳3合飲めるような生活を実現させるというのが公約であった。その頃アメリカの大学キャンパスの芝生では、学生たちは牧場に転がっている家畜用の哺乳ビンのような1リットル瓶で牛乳やジュースをラッパ飲みしていた。社会党の公約を聞いた学生は、なぜ牛乳ばかり3合飲まなきゃならないの、というように受けとられていた。

日本はまだ戦争による痛手が未だ癒しきっていないころであったから、とてつもない生活レベルの差に、目を見張るばかりであった。池田総理大臣の公約どおり、10年後に月給が2倍になれば、少しはこのような生活に近づけるだろうかという希望を持ったのである。しかし思えばそれは、地球環境を破壊する文明が誕生し、健やかに育つ姿を目の当たりにしていたのである。

文化の薫り豊にマロニエの木陰で―飲み水の品格

アメリカの次にヨーロッパはどうであったか。ここではフィクションの作り話をしてみよう。
舞台は花の都パリはシャンゼリゼー。マロニエの木陰に張り出したカフェで、アインシュタイン
(1879-1955)はコーヒーカップを前にして静かな瞑想にふけっていた。そこにたまたま居合わせたイギリスの哲学者フランシス・ベーコン(1561-1626)が親しげに話しかけた。

「やあアインシュタイン先生ではありませんか。今日はここでおくつろぎですか。それにしても近頃は便利になりましたな。科学技術は、私をロンドンからここまでわずか2時間あまりで運んでくれましたよ。私は400年前に「知は力なり」と予言しましたが、その通りになりましたな。子孫たちもアメリカの新大陸で古い伝統にとらわれず、はばかることなく科学技術の大輪を咲かせてくれたではありませんか。」

それを聞いてアインシュタインは憂鬱そうに答えた。
「私が相対性原理によって扉を開いた核科学は、アメリカで原子爆弾の開発に利用され、今や核武装が世界中に拡散しようとしています。1955年に私は核武装廃絶の声明書を英国のラッセル博士とともに出しましたが、為政者たちはさっぱり耳を傾けてくれません。」

パリはシャンゼリゼー通りの木陰で

そんな話をしているところへ、通りがかりの哲学者マルチン・ハイデッガー(1889-1976)が割り込んできて、「私は実在論で科学技術の危険性を指摘しています。現にこのようなペットボトルが出回って、飲み物の品格を貶めています。問題は「忘却の忘却」を忘却しているのがいけないのです。」とマルチン・ルターの宗教改革に始まり、カント、ヘーゲルから自説にいたるドイツ哲学の流れをとうとうと説き始めた。

アインシュタインは退屈して、ふと宇宙の彼方に目を移すと、そこに弘法大師(774-835)の姿が見えた。博士は持ち前の強烈な好奇心がわき上がり、大師に訊ねた。

「大師様、私たちの話を聞かれてどのように思われますか。」
大師は伏目かちの顔をさらにうなずかせながら答えた。

「私はここで西洋のかたがたのお話を伺い、もう一つの世界を得度しました。有り難いことです。お手前のコーヒーカップのお水も、このような雰囲気のなかで、ゆっくりと身にも心にもしみわたることができ、本懐の極みでしょう。紙コップやペットボトルのお水とは品格が違います。」
そういうと、大師は凱旋門吹き抜ける風となって消え去った。

茶の湯に見る文化と科学の融和

前の項では、フィクションを使ってヨーロッパ文化の一端を紹介した。日本も古い伝統文化をもちながら、戦後はアメリカの後を追って、見る見るうちに消費大国へと成り上がった。日本の稲作文化には、使い捨ての生活を受け入れる下地があったのである。一方、物を節するという道徳も深く根付いている。禅宗が生んだ茶の湯も飲み物に品格をもたらしているとともに、そのお手前は化学者の目にも合理的に映る。化学者が物質を分析するときは、薬品を加えて溶かしたり、加熱したり、ろ紙で分けたりと、こわれやすいガラスの容器に何回も何回も入れ替えるという作業をする。薬品には引火性のものあれば、劇薬もあるから、慎重にしなければならない。精神統一が必要である。茶道は精神統一に美を意識し、行動に優雅を求める。結果において、茶を点てるその手さばきは化学者の作業と同じようになっている。まさに文化と技術の融合である。

茶の湯と化学実験にみる心技一体

科学は人間の欲望を開放するために、さまざまなものを造り出しているが、一般的にいえば年々形式が変わって、どのようなものを造ればよいのかが定まっていないのが現状である。それは多様な文化に根ざし、しかもダイナミックに変動する性質のものであるが、やがて精神との調和が求められることになるであろう。物を使うには、使う心と切り離しては考えられない。それは多様な物を造り出した技術と、それを使うことによる生活の文化に根ざす問題である。現在は技術が生み出す物が多様になりすぎたために、物を使う心において文化にまで高めるいとまがなく混乱している。自動車の運転を例にとれば、運転に技能だけを求めるのではなく、作法まで追求する。そういうところまで物を使う心を深めたいのである。自動車の運転に家元や名取があって、その道を極めようという文化である。そうすれば、交通規則も自然に遵守され、ガソリンの消費も節するであろう。過剰な事故防止設備もつけなくてすむ。

道を極めた節度ある心の側から、どのような物を作るかを決め、作られた物に人が支配されるようなことのない仕組み、これが文化と科学技術の調和である。そうした仕組みは環境との調和に貢献するはずである。それには文化と科学技術の両面にわたる理解が必要である。このでは物を作る科学技術の仕組みのほうから先に、次の章で取り上げることにする。

次の章・・・“ゴミとはなにか”

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