“いただきもの”の文化/“愛の器”の物語

疲れた命も・病む命も・傷ついたも命も・愛する命も・みんなもう一度美しい姿となって・・・・!

4章 枯れ木に花を咲かせましょう・・・・!



私たち・日本人の心の小箱にあるものは・・・?

 これまで、“物質”の本性が実はどんなに美しいのか、また物質が自然界を繰返し・繰り返し、巡りめぐって“命”を育んでいく能力をもっていることを述べてきました。
 では、人間が地球から“いただいた”物質の本性を変容させて創造した“暮らしの器”と、そのヒストリーを振り返りながら、もう一つの“愛の器”について考えて見たいと思います。
この物語の冒頭にはじまる“ことののおこり”のその先は・・・。

Re-高強度磁器食器との出逢い

 ある日、私は一人の旅人に出会いました。その旅人(小木曽順務さんといいます)が言うことには、「繰返し、繰り返し(リサイクル)て使える“やきもの”があるということをを知っていただきたい。それを多くの方々に使っていただきたい・・・。」そう願って日本全国を旅しているのだというのです。
 
壊れたり・割れたりした“やきもの”のリサイクルってなんだ・・・?

 私はそれまで、割れてしまった“やきもの”を捨てることに疑問をもったこはありませんでした。家の裏庭などを掘ると割れた瀬戸物などがよく出てきますよね。また、川原を歩くと小さく割れた瀬戸物が水に削られてきれいな小石のようになっているのをよく見かけます。
 でも、私が出会った旅人(小木曽順務さん)のお話には共鳴できる何かがありそうだと感じたのです。

それって“花咲かじいさん”ではないのかな・・・?

 そのとき、ふと、思い出したことがありました。それは昔噺の『花咲かじいさん』です。
 童謡(唱歌)でも歌ったことがあるでしょう。もう一人のおじいさん(いじわるじいさん)が掘り当てたのは何だっけ?。子供の頃によく歌った童謡をそっと歌ってみました。
そしてビックリ!。二番の歌詞にさしかかると、
『イジワルジイサン ホッタレバ カワラ ヤ セトカケ ガーラ ガーラ ガーラガラ 』
と歌っていました。

 やっぱりそうだったんだ。いじわるじいさんが掘り出したものは、『愛』を失った生活廃棄物だったのです。 
 もしかしたら、あの旅人(小木曽順務さん)は『花咲かじいさん』をやっているのかな?
私はふとそんなことを考えました。ほんとに突然のことでした。

 そこで、『花咲かじいさん』お噺しのスジを思い出してみました。
 だれでも知っていますよね。

『花咲かじいさん』
ここで、ちょっとお噺の“アラスジ”を思い出してみましょう

 『むかしむかし、あるところにおじいさんと、おばあさんが暮らしていました。二人は『シロ』という犬(歌の中ではポチでしたが・・?)を飼っていて、とても可愛がっていました。
 ある日、おじいさんは、シロをつれて裏の畑に行きました。するとシロが畑の土を掘りながら、しきりにワンワンと吼えるのです。おじいさんは不思議に思って、そこを掘ってみると大判・小判(金貨)がザクザクと出てきました。

 それを見ていたお隣の“いじわるじいさん”さっそく「シロをちょっと貸しておくれ」といってシロを借りてくると、自分の畑につれて行き、首を縄でしばって「小判はどこだ!小判はどこだ!」といいながらシロを引っ張りまわしました。

 シロは苦しまぎれに地面を引っ掻きました。「シメシメ、ここだ、ここだ・・・!」おじいさんがそこを掘るとカワラやセトモノのかけらや汚いもがたくさん出てきました。
 おじいさんはカンカンに怒って、シロの頭を殴りました。シロは悲しそうに鳴きながら死んでしまいました。

 シロのおじいさんはとても悲しんで、シロのなきがらを家へ運ぶと庭の隅に埋めてやり、そこに一本の松ノ木を植えてやりました。松ノ木はズンズン大きくなりました。「この木でウス(臼)をつくって、お米をついてシロにお団子をこしらえてやろう」。おじいさんはさっそくウスを作り、おばあさんといっしょにそのウスでお米をつきはじめました。するとウスの中からお米がどんどん湧き出してきました。

 それを見ていたいじわるじいさん、「わしにもウスを貸しておくれ・・・」そういってウスを借りていって、さっそくウスをつきはじめました。でもお米は出てきません。それどころか汚いもの・ゴミや気持ちの悪いものばかりがどんどん出てきました。いじわるじいさんはまた怒って、こんどはウスを燃やしてしまいました。

 シロのおじいさんは、がっかりして、その灰をかき集め、ザルに入れて家へ持って帰えろうと歩きはじめました。そのとき、急にサッと強い風が吹いてきました。するとザルの中の灰が飛ばされて、枯れたサクラの木に降りかかりました。おじいさんはビックリ!。
 その灰がかかった枯れたサクラの木に綺麗なサクラの花がいっぱに咲き出したのです。
「これはすばらしい・・・」おじいさんは大喜びでザルを抱えながら、
 
 「花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう!」
 「花咲かじじい、枯れ木に花を咲かせましょう!」
 
 そう叫びながら、枯れ木に灰をまいていきました。
 おじいさんの歩いた後にはきれいなサクラの花が次々と咲いていきました。

 そのとき殿様の行列が通りかかりました。「不思議なことするじいさんだな、枯れ木に花を咲かせて殿様に見せてごらん」と家来がいいました。

 「ハイハイご覧下さい」おじいさんは枯れたサクラの木に登ると灰をパッとまきました。すると枯れ木は一面の花盛り。「見事、見事・・・!」殿様も家来たちも大喜び、おじいさんは沢山のご褒美をいただきました。

 それを見ていたいじわるじいさん、「ワシもご褒美をもらわなくっちゃ・・」と残っていたウスの灰をザルにかき集めて殿様の前に行き「花咲かじじい、枯れ木に花をさかせましょう」と叫びました。

「よしよし、もう一度花を咲かせてごらん」殿様は喜んでそういいました。おじいさんはさっそく枯れ木に登って灰をまきました。でも花は咲きません。「おかしいなあ、もっとたくさん灰をまこう」今度は一度に沢山の灰をまきました。それでも花は咲きません。それどころか灰が殿様や家来たちの目や鼻に入ってしまい、大騒ぎ・・・。「これはにせものの花咲かじじいだ、しばってしまえ!」

 いじわるじいさんはつかまって牢屋に入れられてしまいました。・・・』

もう一度、『花咲かじいさん』にめぐり逢って・・・考えたこと

これがお伽噺(おとぎばなし)『花咲かじいさん』のアラスジです。
 
 さて、このお噺は私たちに何を語りかけているのでしょうか?
 ただ単に「勧善懲悪」の昔話の一つとして記憶しているだけでよかったのでしょうか?
 私は考えこんでしまいました。では、このお噺のキーワードは何でしょう。

 それは、
 
物を大切にする心
 
命を大切にする心
 
他をおもいやる心
 ではないでしょうか? 
 
“カワラやセトカケ”ってなんだろう?

 私が最初におどろいたのは、いじわるじいさんが掘り当てたのが“カワラやセトカケ”だったことです。この原材料は、主にケイ酸塩鉱物・シリカ鉱物・アルミナ鉱物などで、地殻を構成している鉱物の大部分を占めている鉱物です。でも陶磁器の製造に適した鉱物はごく僅かなのです。

 であるからこそ、私たちは感謝して大切に使わせていただかなくてはなりませんね。かつては持ち主に愛されていたのに、いまは愛の継続の輪から切り離されてしまった“物”の姿ではないでしょうか。

“灰”とはなんだろう?

 次に気が付いたのは“灰”です。この灰、シロの命がこもった松ノ木(植物)が焼き浄められることによって本来の物質の姿、一部は(二酸化炭素)として大気の中に、一部は目に見える物質の元の姿、(カリウム分を主とする植物の命のエッセンス)に戻ったものといってもよいでしょう。
 であるからこそ、繰返し、繰返し、命を育む能力をもっていたのではないでしょうか。昔から作物がよく実るように枯れ草や、落ち葉の灰を堆肥と混ぜて大切な肥料として使われてきました。

 それだけではありません。日本では古くから植物の灰を水に浸し、その上澄み液、灰汁(あく)といいますが、それを洗剤、漂白剤、自然の食物を安全に食べやすくする(あくぬき)ために、さらには豆腐の凝固剤、紙すき、染色の、調製剤、“やきもの”の釉薬など、人々の暮らし、明日を生むためになくてはならない“もの”として大切にされてきました。

そして、この物語ののクライマックスは・・・!
 
「枯れ木に花を咲かせましょう」
「枯れ木に花を咲かせましょう」

 と、“正直じいさんが”叫ぶところです。

 生きる力を失ったもの、生き返る力が止まっているもの、希望を見失っているもの、疲れて自然と人の輪(和)からはなれてしまったものにむかって、物の命、生ある命の“種”を撒いてあげようとしたのではないでしょうか・・・。

『一切衆生悉有仏性』(いっさい・しゅじょう・しつう・ぶっしょう)

 仏さまの教えの中に、こんな言葉があります。それは、「生きとし生けるものは、すべて、生まれながらに仏性があるから、だれでも、みんな、成仏できる“器”なのですよ!」とお諭しくださっているのでしょう。

 『生きとし生けるもの』、山川草木はもちろん、物の命も、生ある命も、みんな仏さま(宇宙)の愛子(まなこ)だから、病む命も、倦(う)む命も、傷ついた命も、みんな自分に許されたいちばん美しい姿になって、自然(仏さまの懐)に還っていきたいと願ってもよいのですよ・・・と、おっしゃってくださっているのでしょう。
 だから、次の世代に命と愛と希望をつないでいきたいと祈ってもよいのでしょうね。

 「枯れ木に花をさかせましょう」
 「枯れ木に花を咲かせましょう」 なんと優しい言葉でしょうか。

 “桜前線”、こんなステキな言葉があるのも日本だけでしょうね。
 春になって 花が咲いて 木々が芽吹き 木漏れ日が散って 夏草が茂り 秋風が立って ススキが流れ 木の葉が色づき やがて 北の空から木枯らしが降りてくる・・・。
 でも 心の底ではいつでも“花にはじまる面影”をイメージしている・・・。
 
 ・また花に逢いたいな
 ・また芽吹きに逢いたいな
 ・もえるような陽炎のなかを翔けたいな
 ・またあの風に逢いたいな
 ・冬木立の間にかすかに光る夜星に逢いたいな・・・

 あなたもそうではありませんか・・・?

 私達、日本人はみんな心の奥底に共通するものを持っているような気がします。

 それは
 
森羅万象を素直に受入れる心
 
森羅万象の中に美を感じる心
 
つつましくありたいと願う心
 
他のためになりたいと願う心
 
常に清浄でありたいと願う心
 など・などではないでしょうか。
 
 これらは決して恵まれた環境の中で育まれた心情ではありません。むしろ厳しい自然、苦しい気持、悲しみ、貧しい暮らしの数々を通り越して、“からくも”護りぬかれた“心情”だったのではないでしょうか。

 だからこそ、「枯れ木に花を咲かせましょう」という物語が親から子へ、孫へ、何代も、何代も語り継がれてきたのではないかと思うのです。

 実はこのお噺、古くインドから伝わった物語だとも言われています。そういえば、お釈迦さまのおしえにも共通しているように思いませんか。おしえそのものかも知れませんね。

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宇宙から、“もう一つの愛の器”に出逢うまで、ながい物語になってしまいました
ここで一度私が出逢った旅人のホームページを紹介しておきます。

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