“いただきもの”の文化/“愛の器”の物語

宇宙・物質・地球・生命・精神・資源→文化の“道の駅”

2章..物の命→生ある命→創造する命のヒストリー



創造する“命”へ・さらなる遭遇への旅立ち

宇宙に共通する物質群

 宇宙に最も多く存在するのは水素、次がヘリウムで、この二つがあらゆる元素の“もと”になったとされています。
 今、地球上で確認されている元素は92種類ほどです。では、それらの元素はどうして生れてきたのでしょうか?。とても不思議ですね。それは、宇宙空間に輝く恒星の内部で繰返される核融合や、超新星の爆発の際に生成されたと考えられています。

太陽系と物質

 太陽系の“もと”(原材料)となった星間物質の集まりも、宇宙物質と同様に水素やヘリウムを主とするガスと固体微粒子だったようです。それが雲のように集まり、次第に収縮して質量を増しながら太陽に成長し、その一部が円盤状に残され、地球などの惑星が生まれました。およそ46億年も前のことと推定されます。

地球を構成する物質

 地球もまた太陽系と同じ星間物質の集まりの中からから生まれました。
 凝集が進むにつれて内部に発生した巨大な熱は対流を起こしながら熱放射を繰り返し、次第に地殻(地球の表面を構成する部分)が形成され、火山活動が活発に起きるようになりました。このときに放出されたガスには大量の水や二酸化炭素、塩化水素、窒素、亜硫酸ガスなどが含まれ、原始の大気となって地球を包み、やがて地殻(固体の相)と、原始の海(水の相)と、原始の大気(気体の相)が形づくられていきました。
 では、地殻を構成している主な元素は何かというと、酸素とケイ素が最も多く、次いでアルミニウム、鉄、カルシウム、ナトリウム、カリウム、マグネシウム、ニッケル、チタンなどの金属元素で、そのほとんどは酸化物の形で存在しています。
 今、地球は太陽系で海を持つ唯一の惑星です。地球を構成している物質は次々とその海に溶け込んでいきました。

海から生れた“生ある命”・・・

 太陽系に中で地球は今、私たちが知る限り、生命体を抱擁している唯一の惑星です。では地球上の生命体を構成しているものは何かというと、アミノ酸です。そのアミノ酸を構成している元素は窒素、水素、炭素、酸素、などです。やっぱり宇宙からいただいた物質・元素と同じですね。
 このアミノ酸の組み合わせによって、無数のたんぱく質が構成され、生命体それぞれに固有な遺伝子の担い手“核酸”のはたらきによって、生命の育成になくてはならない多くのたんぱく質がつくられ、細胞が細胞を生み出しながら生ある命(生命体)へと成長していきました。
 もう一つ忘れてはならないもの、物質が物質を生み出すための力、それは太陽からいただいた光と熱エネルギーです。
 ですから私たちの体も、宇宙から地球へ、地球から私たちへ、脈々と、受け継がれてきた元素によって構成されているといってもよいでしょう。
 原始の海から増殖する能力を持った、たんぱく質の集まり、細胞のようなもの、バクテリアのようなものが発生し、やがておびただしい数の命の“種”が誕生しました。
 その中から無機質を取り込み、やがて無機質を分泌する能力を持った細胞が生み出され、その一部が“骨”を持った生命体へと進化していきました。この仲間を脊椎動物と呼びますが、その進化の道筋(系)を間単にいうと、魚類→両生類→爬虫類→<鳥類・獣形類>→哺乳類→霊長類→人類(ホモサピエンス)、私たちの祖先へとたどることができます。
 原始の海に増殖するたんぱく質群(生ある命)が生れてから、およそ30億年にもおよぶ時が流れていました。

“生ある命”から“心ある命”へ、そして創造の始まり

 私たちの祖先が他の霊長類の中から“ヒト”として分化し、二本の足で歩み始めたのは、およそ500万年ほど前のある時期、ある地域だったらしいと仮定されているようです。(詳しくは専門の書籍などを見てくださいね)
 その人類が最初につくったのはたぶん石器だったといってもよいでしょう。これは地球物質(ある種の岩石)の材質を変えることなく手で形を変えて作り出したものです。

 その後人類はやがて“大変なもの”に出会います。それは“
”との出会いとふれあいです。これをいただく以上、人類は宇宙からの愛を自分の意思によって制御しなくてはならない責任を追うことになるのですが・・・・。

“火”との出会いと土器の創製・・・

 “火”は暗闇を照らし、体を温めてくれました。人々は火の回りに集い、食事を共にし、食べ物を蓄え、その食物を美味しく、食べやすくするために火を使うようになりました。
 “暮らしのステージの幕開け”です。
 人々は、ある種の土が加熱によって固くかたまることに気付いたのでした。地球物質(土)を水と火の力を借りてその性質と形を変え、暮らしの道具としての“土器”生み出したのです。
 

“暮らしのステージ”の幕開け

“命”は明日を生み落とす・・・!

 宇宙・銀河系・太陽系・地球へ受け継がれてきた、物の命、生ある命、愛を育む命・創造する命・明日の暮らしを産み落とす命・・・。
 その命が、“火”と遭遇し、火と触れ合うことから生み出された“器”、それは“暮らしの器”でした。
 人々の暮らしぶりが、狩猟や採取から、農耕へ、移動から定着へと進むうちに、食物や水を貯えるための器、より食べやすくするための器が必要になりました。
 食物、特に穀物などは生のままでは食べ難いでしょう。そこで水と共に煮たり、蒸したりすると、とても美味しく食べられるようになりますよね。
 海に近いところでは貝を器に入れて蒸し焼きにしたらどうでしょう。海水の塩味と磯の香りがして思っただけでも美味しそうですね。
 火に直接当てて熱したり温めたりすることのできる“器”、土器はこの用途に最も適した容器だったにちがいありません。
 それ以来、人々は創造力の限りをつくして暮らしに必要な器、魂の拠りどころとするための器をつくり始めました。
 
 日本列島に住みついた人々が創り出した最古の土器であるとともに、今日知られている世界で最も古い土器とされる縄文式土器は、1万数千年以上も前からつくられていたといわれています。
 この土器は、人々が石器と併用して、狩猟・採集から、初期の農耕・漁労で暮らしを立てていた頃から日本の広い地域で作られ、さまざまな形式を生みながら、生活用具の主役として使われてきました。
 やがて人々はより大きな集落を作り、耕地や水田を開き、稲作を中心とした共同生活を営むようになると、縄文式土器よりも薄くて堅い壷・甕(かめ)・鉢・高坏(たかつき)など、穀物の煮炊きや保存用の生活用具としてもう少し実用的な、弥生式土器が生み出され、広く使われるようになりました。地域によって違いますが、今からおよそ2000年ほど前からのことでしょうか。

土器から陶磁器へ・・・

 土器の時代には粘土で形を整えた器を一ヶ所に集めたり、積み重ねたりして、周りを枯れ草や薪でおおい、これに火をつけて、次々に薪を投げ入れながら焼き上げていたようです。
 これに代わって、石や土で室(むろ)、“窯”をつくり、火の熱が逃げないように工夫し、その中で土器を焼き上げる手法が行き渡るようになりました。こうすると焼き上げる温度も数100℃から1000℃近くへと大幅に高められ、水が滲みたり、火に掛けても割れ難く、丈夫な“やきもの”がつくらるようになり、やがて土器から陶器へと発展していきました。

 古墳時代から、飛鳥、奈良、平安、鎌倉時代へ、(5世紀後半から13世紀)にかけて日本各地で広くつくられていた“須恵器”などもこのような手法で作られた器です。8世紀以降には素焼きの器にある種の紬薬をかけて“窯”で焼き上げる“陶器”の技術もあったとされています。
 また、中国では10世紀、唐代末期には長石系の鉱物を砕いた粉末材料を水と共に成形し、高温で焼き固めた緻密な白色素地、すなわち“磁器”がつくられるようになりました。この中国発の“やきもの”の技術は史上空前の発展を遂げ、その製品は中東、中近東さらにヨーロッパへと輸出さて行きました。このように優れた当時の中国の技術は、やがて朝鮮半島を経て、わが国にも伝えられるようになり、“磁器”を焼くための窯が各地でつくられるよう
になりました。

 日本での“やきもの”の技術が飛躍的に発展したのは豊臣秀吉による文禄・慶長の役以降のことです。戦役がもたらした技術移転によるものといえますが・・・。
 以来数百年、江戸時代を通じて、日本各地ですぐれた陶磁器“やきもの”が生産され、“暮らしの器”として庶民の日常生活に深く浸透して今日に到ります。

 世界の人々の中で、庶民を含め、日本人ほど、日常生活の中で陶磁器“やきもの”に親しんできた民族はないのではないでしょうか。
 では、どうして日本人がこれほど陶磁器“やきもの”に親しむようになったのでしょう。それは、陶磁器のもつ材質の厳しさ、造形・色調の美しさ、質感、肌触りの優しさ、自然と調和など、さまざまな要因か思い浮かびますが、日本人が、親から子へ、孫へと継承してきた暮らしの文化・儀礼、節目を通して“暮らしの器”とのふれあいの輪(和)を拡げ、深めてきたから‥・と、いってもよいのではないでしょうか。

 もちろん、日本人の暮らしと“もの”づくりの文化のなかで、木地・漆・野鍛冶等の技法も忘れることはできませんが、ここでは、地殻の構成物質、岩石や粘土などを原料とし、“火”の力と、人間の創造力を結集して生み出された“やきもの”について、もう少し考えてみたいと思います。

 私たちは、“やきもの”というと、すぐに、その産地や名称が浮かんできますよね。
 たとえば、
 陶器では・・:備前焼、瀬戸焼、信楽焼、丹波焼、薩摩焼、粟田焼、等々
 磁器では・・:有田焼、九谷焼、伊万里焼、清水焼、等々
 思い出したらきりがありません。

 それより、もっと大切なのは今、“自分焼”が日本中から湧き上がるように生れていることです。街を歩くとささやかな陶芸展や、せともの市などによく出会います。おじさんや、おばさんも、若いカップルもみんな楽しみながら、思い思いに“暮らしの器”を選んでいる様子を見かけますね。
 そういえば、私も結婚して、新婚旅行から帰って、すぐに妻と一緒に二人のお茶碗を買いにいきました。半世紀もまえのコトです。

日本人と“やきもの”(暮らしの器)の触れ合い

 やきものを見ていると、これまでに、自分がしていただいたこと、今の暮らし、さまざまな出逢い、思い出、これからの暮らし、そんなことが、次々に浮かんできて、知らず知らず、心が和むようなひとときがあるのではないでしょうか。

 どんなことを思い出しますか・・・?
 心の中にあるアルバムを開いてみましょう。“私のアルバム”・・・。はじめて両親や家族に出逢った日々、『お七夜』(名前をいただいた日)・『お宮参り』(生れて初めてその土地の神様にご挨拶し、健康と長寿を祈る日)・『お食いぞめ』・『年毎の誕生日』・『ひな祭り』・『端午の節句』『七五三』・『入園』・『入学』などなど。そのアルバムの1頁・1頁をで支えていたのは家族との団欒でしたね。振り返って見ると節目、佳節の折々の“いただきもの”そのいれものこそ“愛の器”だったのではないでしょうか。

 その中から、日本人の、優しさ、小さきものへの慈しみ、自然への感謝、などに根ざした文化の一つを紹介して見ましょう・・・。

『お食いぞめ』(お箸初めともいわれます)
 誕生から百日目、(地方によっては百十日、百二十日目))に、この子が一生食べるものに困らないようにと祈る行事です。小さなお茶碗や、お皿など一式のお膳で、赤飯に尾頭付きの鯛などを食べるまねをさせる儀式です。地球からの“いただきもの”にそえて海の幸、山の幸をいただく、最初の節目です。赤飯はお目出度い日のいただきものですが、中に入っている“小豆”には“マメ”(元気な働き者)になりますようにとのこめられているのでしょう。
 なんと優しい伝承文化でしょうか。“自然”と“人の世”と共に生きることの厳しさに耐え、生き抜いてほしいと祈る親や家族の願いが切々と伝わってきますね。
 この一例だけでも、私たちがどんなに愛されて生れてきたのか、分かっていただけましたか?。

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