総合資源文化-コスモス

秋田大学工学資源学部 教授 牧野和孝氏に聞きました
◆ 資源と愛のコンセプト
  『“資源”って何ですか?』  
『繰り返し、繰り返すもの』

 “資源”というのは“Resources”という言葉からも分かりますように、“Re”というのは、何回でも、繰り返す、という意味で、“Source”は、“もとになるもの”という意味を持っています。
 ですから、何回でも使うという意味と、繰り返し、繰り返し使うという意味と、繰り返し、繰り返し、形を変えて自然のサイクルの中に“めぐりめぐって行くもの”という意味があるのです。
 このように、物質が自然のサイクルの中で、ぐるぐるめぐりながら、“もののいのち”を繰り返し、繰り返し生かしている限り、その物質は、永遠に生命を育んでいく能力を持っていると言ってもよいでしょう。
 それが「資源」“Resources”の本来の概念だと思います。ですから“永続”という概念を抜きにして資源を語ることはできないのです。

 今、人間(私達)は、あらゆる工業技術を駆使して、自然界から人間にとって役に立つ物質を取り出したり、それをもとにして、更に新しい物質を作り出して使っています。
 使い捨てているといってもよいでしょう。でも自然界に蓄積されている物質を資源として使わせて頂く以上、何回でも何回でも、できる限り繰り返して使い尽くしていく、そういう目的に向かって努力していかなくてはなりません。それが『焼き尽くす』ということなのです。智慧の火で焼き尽くす・・・・・・。「神のものは神に返して行く」ということなのでしょうか。

 私たちが使わせて頂いでてる資源が、もとに戻せないような形で止まってしまうと、それは、もう資源ではなくなって、単なる素材、マテリアルになってしまいます。
 マテリアルというのは、繰り返し繰り返されるという概念を抜きにしていますから、今、必要なものを必要な形で使う、いい返れば、人間がが刹那的に生きていければそれでよいというとらえ方になってしまいがちです。したがって、自然の生態系を破壊して将来の人間まで否定してしまう、そのような考え方を内包していると思うのです。ですから今、永続という概念を基本におく“Resources”という言葉の意味を深く見つめ直して、大切にしたいと思うのです。

『物質を浄め尽くして・・・・』

 たとえば石油にしても、ただ単に使い捨てるだけでは資源とはいえません。石油を資源と呼ぶためには、石油を使って、使って、使い切って、生態系を破壊しないようにして、神のもとへお返しする、浄化して、浄め尽くす、そういう使い方を指向していかなくてはなりません。これは技術文明における生賛だと考えてもよいでしょう。
 『焼き尽くして神に捧げる』ということです。慎んで焼き尽くすことを根底に置かないと、神様は「お前達とその子孫を生かしてやろう」とはおっしやらないかもしれません。

『資源と愛のコンセプト』

 資源に永続というコンセプトがあるとすれば、人間の側にもそれに対応するコンセプトがなくてはなりません。私は、それは、『愛』男と女の愛ではないかと思います。
 男と女の愛、それは創造、つまり、愛の結晶を生み出していくという意味においてです。
 人間は、生み出さない限り生き続けてていけません。生み出すことによってまた次の世代が生み出されていく。ですから真の愛がある限り、創造があり、創造は永続を指向していくと思うのです。

 では、資源というコンセプトの下に愛を育んでいくにはどうしたらよいのでしょう。『愛』を持続しようとすると、自然と関わりを持たなくは生きていけません。自然に触れているだけではなく、また埋没するだけでもなく、自然に対して心を開いて、受け入れていかなくてはなりません。
 自分という器で受け止めた自然、あなたという器で受け止めた自然、その一つ一つに資源という概念を重ねあわせて、なにものかを創造し、また再び自然に返していく、それが自然に対して開かれた心だと思うのです。
 『愛』とは、必然的に資源というコンセプトを持たなくては、その愛を永続できないのです。永続できなけれぱ生きていけない。だから、人間の愛、男と女の愛という概念と、資源という概念は、切り放すことのできないものだと思います。


『総合資源文化への歩み』

 また、資源と愛との縁は、太陽と地球の間柄を考えていただくとよく分ると思います。太陽が光と、『愛』をそそぎ、地球がそれを受けて、幾多の『もの』と『いのち』を芽生えさせていく。
太陽が男で地球が女だと考えてもよいでしょう。
 地球は、太陽の愛を受けて水を循環させながら愛の結晶を育んでいきます。このような太陽と地球が作り出すような愛を、男と女との仲で創り出したとき、資源文化が生まれてくるのではないでしょうか。
 このような愛が否定され、刹那的な愛しか持てなくなったら、それは資源消費社会になっていくといってもよいでしょう。
 資源消費社会では男と女は愛を語る能力がない。愛というコンセプトが欠乏したときに、資源というコンセプトも欠乏していくのではなでしょうか・・・。