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外山茂樹/地球を救う“かけ声”たちを総点検



§4.「科学技術」という両刃の剣―長い歴史の尺度で点検すれば―

(4.1)「科学」と「技術」それぞれの生い立ち

文明の発祥と技術そしてキリストの懐から科学

多くの日本人は、もはや生活は十分に豊かで便利になってしまった。これ以上便利になったらどうなるだろうと考え始めている。それは科学技術の恩恵によるところが大きい。科学技術が生み出す価値には、経済(新しい商品の提供)、文化(教養や娯楽)、生活(便利で魅力的な家庭用品や食品)、政治(治安、軍事)、地球(資源、環境)などが挙げられる。

科学技術は果たして「打ち出の小槌」のように、いつまでも思うことは何でも叶えてくれるであろうか。その答えを尋ねるために、科学技術とは何かを考えてみよう。これまで「科学」と「技術」をくっ付けて1つの言葉にしていたが、実はそれぞれ別の生い立ちをしているのである。

この本で述べてきた言葉にこだわれば、「技術」は「文化国」から発祥し、「科学」は「文明国」から生まれている。もともと人間が「文化」を手にしたのは、火を使う技術や、農耕、狩猟などの技術を体得したところから始まっている。そこはエジプトやイラク、中国など現在は発展途上国とよばれる文化国の地域である。「文化」によって生きてゆくことにゆとりができると、さらに鉄の鋳造(中国:紀元前2世紀)ガラス(エジプト:紀元前5世紀)、電池(イラク:紀元元年頃)、紙(中国:西暦105年)などの技術が文化国のあちこちで生まれている。先進国とよばれる文明国にこれらの技術が伝えられたのは、実に千年以上後のことである。

四大文明発祥の地

文化をもたらした「技術」にはその前に「科学」という文字がついていない。なぜかというと、「科学」はキリスト教の懐から生まれたからである。キリスト教の教義を覆すコペルニクスの「地動説」を裁く天文裁判で、自然の法則を認めるところから、「科学」は生まれている。今でも一人前の科学者の称号をドクター・オブ・フィロソフィー(PhD:哲学博士)とよぶのは、神の許しをえて自然の法則を研究する資格者という意味なのである。この科学誕生によって中世という神が支配した時代はほころび始め、イタリアから文芸復興のルネッサンスを迎える。そうして科学は技術と結びつき、今日のように地球環境を揺るがすようにまで成長した。

キリスト教国でもない日本が、どのようにその科学を取り入れ、先進国すなわち文明国の仲間に入っていったであろうか。次のその歴史をたどってみよう。

イギリスの産業革命とナポレオンの栄光

14世紀に始まったルネッサンス以降の科学の発展が、産業と結びついたのがイギリスである。イギリスでは1688年の名誉革命などを経て議会主義が確立し、対岸のヨーロッパ大陸に比べ国情が安定していた。また大航海によって勝ち得た広大な植民地との交易によって、沢山の物が造られるようになり、機械化が進められた。いわゆる産業革命で、それを象徴する発明がよく知られているジェイムス・ワット(17361819)による蒸気機関である。人力を機械におきかえてということで、科学史の上で大きな意義があるとされている。イギリスのグラスゴー大学機械工学科の建物の1つはエジェイムス・ワット会館と呼ばれ、そこには彼が使った工具などが陳列されている。ちなみにもう1つの建物は、エンジンの熱力学線図を示したランキンの名前を冠している。絶対温度の単位であるケルビンはその近くの通りの名前になっている。熱力学でつまずきそうな丘の上に、グラスゴー大学は産業都市を眺めながら500年の歴史を刻んでいる。

一方、ヨーロッパ大陸では1789年にフランス革命が起こり、民衆の活力が育成されていった。革命を成功させたナポレオンは、5年後の1794年にエコール・ド・ポリテクニークを創立して科学技術の振興をはかった。エコールというのは学校で、ポリテクニークは直訳すれば総合技術となるが、テクニークというのは日本語の技術よりも科学全般を含めた広い意味をもっている。パリ理工科大学とよばれ、科学技術教育の元祖ともいわれている。

「赤と黒」といえばスタンダールの小説で有名であるが、この赤は軍隊を、そして黒は僧侶を象徴している。日本では軍といえば武勇を連想するが、西洋では知性と策略が支配する。いずれにしてもこのエコール・ド・ポリテクニークは、ナポレオンの栄光のもとにフランス民衆の輝かしい実績を積み重ね、19世紀前半には科学技術の中心といわれた。

観念論から目覚めたドイツの巻き返しと日本の文明開化

フランス革命後のヨーロッパでは、1815年のウィーン会議によってドイツには一時王朝が復活し領邦国家となった。このような政治情勢のため、ドイツへの産業革命は遅れて波及した。科学技術教育もフランス式で始められたが、普仏戦争によってナポレオン軍が敗走すると、独自の教育方式で科学技術の苗代つくりを行ったのである。すなわちベルリンを始め、ミュンヘン、ハノーバー、カールスルーエなどにテイクニッシェ・ホッホ・シューレを開設した。これは直訳すれば高等技術学校であるが、実質は技術の最高教育機関である。フランスのエコール・ド・ポリテクニークは、ナポレオンの政治体制に大きく影響されたのに対し、ドイツでは国家の政治から独立して学問の自由を保障した。それはルーテルの宗教改革を主導し、ヨーロッパの思想文化を伝承する教養主義が支配していたドイツ流理念でもあった。学問は知識、真理を求めようとする止みがたい衝動、欲求に基づいており、永遠の真理を追究し続けるという研究態度が学問の実践には必要であるとしている。かくして1871年にビスマルクはウィルヘルム皇帝を戴してドイツを統一すると、科学や技術上の大発見が次々と生まれた。

工部大学校校舎とヘンリー・ダイア

ドイツにおいて科学技術黄金の日々を迎えようとしていた頃、日本は明治維新を迎え、西洋の科学文明への目が開かれた。日本の工業教育は維新政府の管轄による工学寮がその始まりである。設立に当たったヘンリー・ダイアは当時24歳、熱力学のランキン教授の弟子であった。イギリスの産業革命の話のところに出てきたグラスゴー大学の機械科の建物に名前を残している先生である。ところがイギリスではオックスフォードやケンブリッジ大学に代表されるようなところは、上流紳士教育が尊ばれる風潮があった。そこでダイアは日本の工業教育にスイス連邦工科大学を手本にし、ドイツ流の学問の理念を取り入れたのである。そして1886年に統合設立された帝国大学(現在の東京大学)は、「国家の須要に応ずる学術技芸を教授し、およびその蘊奥(ウンオウ)を考究するをもって目的」とした。最後にドイツの真理の探求を至高とする思想が盛り込まれた。

このとき若きダイアが理想としたのは、日本は科学技術を生活の向上だけに活用し、そこから先は固有の文化を見失わないように育て、欧米諸国と対等に交流できるようにする教育であった。その頃ヨーロッパで繰り広げられているような、国家同士の争いによって領土を奪い合いはせず、商業や工業の発展させるための人材教育を願った。そうしないと大きな代償を払うことになるだろうと予言していた。

ベルリンの菩提樹の木陰で大正ロマンを語る

「科学技術」というと話が堅くなるので、ここでまたフィクションの会話で、日本の近代化の課程を振り返ってみよう。登場人物は彼の代々樹壱咲氏(Issac)と、アンモニア合成のフリッツ・ハーバー(1868-1934)と核分裂発見のオット・ハーン(1879-1968)の両先生、舞台はベルリンのハルナックハウス。

Issac:この節の後の部分は「科学」がキリスト教という一神教の教義のもとで生まれ、それが技術と結びついて今日では持て余すほど大きく成長している。その発端はイギリスの産業革命で、それがフランス、ドイツに伝わり、日本もこれに加わったという時代の、下手な歴史の教科書のような話になってしまいました。それで今日はここにハーバー先生(Herber1868-1934)とハーン先生(Hahn1879-1968)をお招きしています。

ベルリン郊外に誕生した学園都市(1912年)

このページの絵は、1912年の日本では大正が始まろうとしていた頃、ベルリンの当時郊外であったダーレムというところに学園都市ができた頃の写真をもとに描きおこしたものです。ドイツでは1871年にビスマルクによって統一されると、勢いに乗って科学技術における大発見が次々に生まれました。そこで、1910年のベルリン大学創立100年祭にあたり、教育の義務から解放されて、専ら真理の探求の研究だけに没頭できるような研究所を設立する案が提出され、これが認められて皇帝の名前にちなんで、カイザー・ウィルヘルム協会が誕生し、専門の違った研究所が次々と生まれました。

手前左は化学研究所(今はオット・ハーン館)、右が電気化学・物理化学研究所(今はフリッツ・ハーバー館)で、その奥に実験療法研究所が描かれています。1912年の開所式には皇帝ウィルヘルム2世を迎え、物理学のマックス・プランク、分析化学のエルンスト・ベックマン、アンモニア合成のフリッツ・ハーバーらが列席した。研究所には核分裂反応を発見したオット・ハーンやリーゼ・マイトナーの名も連ね、やがてアルバート・アインシュタインも加わりました。四つ角にあるのがこの舞台、ハルナックハウスと呼ばれるクラブで、ゆったりとしたレストランもあります。当時から、ここでいろいろな分野の人達が雑談を交わし、その学際的雰囲気はまた素晴らしい研究成果の誕生に大きく貢献しました。

Hahn:やあIssac先生、近頃「ドイツの原子力物語」という本を書かれて、私のことをいろいろ紹介下さっているそうですね。いずれにしても私たちが発見した核分裂反応が、今日では世界の大きな問題になっているようで、天国にいてもなかなか気が休まりません。

Issac:今日はその問題も含めて地球環境の問題についていろいろ伺いたいと思います。これは「科学」とか「技術」の問題をこえた、人の考え方とか生活の送り方、文化にまで立ち入らねばと思っています。それでこの節を“「科学」と「技術」それぞれの生い立ち”として少し前置きを説明したところです。

Hahn:ヨーロッパでは「科学」は「神」の栄光のもとで生いたったという見方は面白いですね。そのため、ヨーロッパでは「科学」は大学で、「技術」はカレッジでということになっています。お医者様でも「内科」は「科学」だけれども、「外科」は床屋さんと同列の「技術」という時代もありました。

Issac:日本人は19世紀に黒船とあいまみえたわけですが、この西洋の技術は科学に裏打ちさていることは見抜いていたといわれています。そこで日本人は科学と技術は表裏一体のものであると理解したのです。§1の学生の会話にあった、日本人は「科学」は金もうけのためだけにするというような誤解に繋がったのではないかと思います。

Hahn:多文化が共存するためには、お互い寛大でなくてはいけませんね。

Issac:欧米社会では「科学」は「神」の栄光から出発している、つまり「科学」は文化の一部で教養として迎えいれられていると思うのです。こちらでは科学雑誌は経営者の教養として読まれているようですが、日本では売れないそうです。昔の日本には、士農工商という階層社会がありましたから、経営者は技術が必要ならば、技術者を雇えばよいと考えていた頃もありました。

Hahn:その当たりは、日本を訪問し半年も滞在されたフリッツ・ハーバー先生はよくお分かりではないですか。

Harber:そうですね、Issac先生も書かれているように、日本の技術教育はドイツ流を取り入れたこともあって、私が日本を訪問したときには、私のところで勉強したいという若者からの申し出をずいぶん受けました。ところがそれがまた玉石混交で、日本では人の評価はどうなっているのかという、文化の違いを感じましたね。

Issac:日本人は天皇を頂点とする血縁で繋がった同胞という意識から、お互いにかばい合うようなところがありますね。しかし、明治から大正の時代にはいると、教育の機会均等がゆきわたり、身分に関係なく難しい試験に合格すれば高度な教育を受けることができました。そうして高い教育を受けた者は、自分のためではなく、社会のため同胞のために尽くすのだという道徳律を叩き込まれていたのです。

Harber:確かに私の片腕となってアンモニア合成の研究をしてくれた田丸節郎君(1879-1944)などは実に緻密にどこまでも問題を追及し、そのねばり強さと猛烈な仕事ぶりをみて驚嘆し、ドイツの人達は彼のことをトーテンマン、つまり死ぬほど働く人と呼んでいましたよ。私の研究室がアンモニア合成を先駆けて成功したのは、田丸君の働きによるところが大きいですよ。

Issac:田丸先生は日本の理化学研究所からドイツに留学されました。この研究所はドイツのカイザー・ウィルヘルム協会の研究所の趣意を、そのまま日本流に取り入れて1917年(大正7年)に創立されたものです。その頃日本は明治維新から半世紀を経て、ヨーロッパ文明の追随から自分流を見出そうとする、いわゆる大正ロマンといわれた時代でした。

Hahn:そういえば私の専門に近いところでは、理化学研究所の仁科芳雄先生(1890-1951)のことをデンマークのニールス・ボーア先生は大変褒めておられました。日本の原子科学のパイオニアといわれていますね。ボーア先生から聞いたところによると、日曜日にも柵を乗り越えて研究室に入り、仕事をしたそうです。

Issac:ああ、それは日本の文化は勤勉を美徳としていますからね。それにモーゼの十戒にあるように、1週間に一度休みなさいという掟はありませんから。私が勤めた研究所でも、勤務時間中は公の施設である器具をフルに活用し、文献を読むのは夜、論文を書くのは日曜日ということになっていました。

Hahn:ドイツ人も結構よく働きますが、考え方は文化によって違うものですね。われわれの文化で「科学」とはなにかといえば、自然界の成り立ちを矛盾なく理解するための知の営みであると考えています。ある理論が完成していても、それと矛盾する現象が発見されれば、その他の理論は排除されてしまう。一神教の世界であれば、当然のように自然を矛盾なく説明したいという願望が生まれる。ただこのために、量子力学では光は波であり、かつ粒子の確率的存在とする2面性を理解するのには、大いにてこずりましたね。アインシュタイン先生の相対性原理によって、地動説と天動説が両立することになったわけですが、その間400年もかかりました。

Issac:こういうことは多神教の人のほうが納得しやすく、日本人はすいすいと理解したなどと、うがったことをいう人もいるようです。一方、食品などの表示で問題になっている偽装や隠蔽は、真理は1つという精神が欠如しているせいかもしれません。どうも有り難うございました。これからまた科学の歴史の話に戻ります。

(4.2)文化と文明の周波数

古代文化と唯神教

もともと人間が「文化」を手にしたのは、火を使う技術や、農耕、狩猟などの技術を体得したところから始まっている。環境破壊という観点からいえば、人間が自然に手を加え始めた農耕がその原点であろう。そして農耕に適した地味豊かな地域には、人々の生活に余裕が生まれ文化が育った。人類にとって最初の欲望からの開放である。しかし自己保存と安楽に歯止めが外されたとき、必ず征服という愚行があった。豊かな農耕地は、これを垂涎する周辺の厳しい風土に鍛えられた民族によって滅ぼされ、滅亡を繰り返した。欲望の開放から恐怖の時代を迎え、人間の歴史は征服と英雄の歴史となった。征服者は財宝を奪い、反抗するものは殺し、従うものは奴隷となった。奴隷労働によって都市が造られ、宗教は支配者のものとなり、支配者やその一族を祭る偶像崇拝の多神教となった。

古代社会が滅び、初期の征服者が都市を造り始めた頃、肥沃な農耕地に挟まれた不毛の砂漠地帯に遊牧民がいた。彼らの祖先は征服を逃れた古代農耕民だとする説もある。砂漠の遊牧民たちは長いあいだ征服されることもなく、自分たちの生活を守り、家畜を追いながら乾燥地帯を移動していた。こうした単調で過酷な風土は唯神教を生んだ。もともと宗教は苦しみの中から慰みを求めるものである。家畜を追って移動する集団生活では、人間と人間との間の規律のみが集団を維持する要素である。そこでは戒律が厳しく行われ、それらはすべて神と人間との「契約」であり、神の詔命を受けた聖者たちが最後の審判を下すという終末観をもっていた。

モーゼ像

地中海地域に生まれた宗教の大元とされるモーゼの十戒は次のようになっている。

1)他の神を作ってはならない。 
2)偶像の神を作ってはならない。 
3)神(ヤハウエ)の名をみだりに唱えてはならない。 
4)週の7日目を安息日として聖別せよ。 
5)父母を敬うこと。 
6)殺してはならない。 
7)姦淫してはならない。 
8)盗んではならない。 
9)偽証してはならない。
10)むさぼってはならない。

4項目までは強烈に排他的なのは、唯神教ゆえの思想であろう。地球上にはこのような唯神教もあれば、ギリシャ文化や日本の神道のような多神教もある。世界に共通する地球環境問題を考えるためには、もう少し辺の歴史を頭に入れておかなければならない。

地中海文化の盛衰

キリストが生まれたころのユダヤ人は、古代ヘブライ民族の後胤だが、当時ユダヤ人たちは祖国を失い、新興の大帝国ローマが支配する地域に住みついており、ローマの法律と彼ら自身の律法の両方にしばられて悲惨な生活を送っていた。キリストはそのような同胞の苦しみを救うために「福音」を説いた。それは神の限りない「愛」であり、神の子を信ずるものは、神からの愛を受けたように、互いに人々を愛しあわねばならないと説いたのである。

この教えはユダヤ人の社会よりも、ローマ帝国の下層階級や奴隷たちの間に伝えられ、次第に上層階級へと広まり、4世紀には遂にローマの国教となるに至った。その後大ローマ帝国は東西に分裂したが、キリスト教は全土に広まった。さらにゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅亡した後も、ヨーロッパ封建地主たちが愚民対策のために教会と結託してキリスト教を広めた。かくして長い中世ヨーロッパにおけるローマ法王庁の精神文化を支配したのである。

もう一方でイスラム教がアラビア人マホメットによって創始された。アラビア遊牧民の出身である彼は、ユダヤ人の宗教とアラビア遊牧民の伝承を比較し、キリスト教の教理を学ぶうち、自ら霊感を得て預言者となり、570年ころ厳格な唯一神「アラー」を奉ずる新宗を
創り上げた。これはアラビアの遊牧民の伝承の中にある唯一神の信仰を強調したもので、キリスト教の
ような偶像崇拝を徹底的に拒否した。モーゼの十戒の初めの4項目は他の神を認めないことを説いているわけであるから大変である。しかしマホメットは迫害にもめげず、この宗教を近隣の地域の実力をもって布教した。8世紀頃にはイスラム帝国の領地はアラビア、中東地域、エジプト、北アフリカから現在のスペインに及び、高度な文化圏を作りあげた。

さて、イスラム教によってギリシャなどの文化を伝えられたヨーロッパには、やがてルネッサンス運動を通じて、強大なキリスト教に対する反発が始まった。そして北部のプロテスタントが起こり、哲学や科学が盛んになってきた。ギリシャの天文学がヨーロッパに伝わったとき、キリスト教権は聖書の記述に矛盾しない説のみをとり、他を抑圧した。やがて天体観測が盛んになっていろいろな矛盾が発見され、コペルニクス、ガリレオ、レプラーを経て、ニュートンによって見事な数学モデルがつくりあげられた。かくして「科学」はキリスト教の懐の中で、教義に並ぶ地位を得たのである。

教義と並んだ科学の真理

唯神教と多神教民族のそれぞれの道

キリスト教の唯神論の周波数は科学と同調して発展し、人間の欲望がはばかることなく開放されていった。産業革命の威勢に乗ってアダム・スミスは楽天的な国富論を著し、経済優先の思想を広めようとするが、18世紀のヨーロッパでは政治によって大きく揺さぶられた。アメリカという新しい大陸はヨーロッパの争いを緩和して、アダム・スミスの理論どおり経済がものをいう時代になる。唯物論的科学が根ざす技術がもたらした資本主義は、これまたマルクスの理論どおり周期的な経済恐慌に見舞われ、資本家が労働者を征服し、悲惨な生活を強いられる無産階級プロレタリアートを生んだ。マルクスはプロレタリアートの団結を呼びかけ共産党宣言を行う。

一方、日本人は極東の孤島で多民族の制服による集団奴隷や皆殺しの恐怖を味わうことなく生き延びてきた。少数の人が海を渡って異文化を伝え、それを素朴な古代農耕民族の直感によって想像力豊かに模倣し、独自の文明を築いてきた。天皇は血を分けた同胞の頂点に立つとともに、神道の中心でもあった。しかし決してそれは唯物的な専制君主ではなく、村意識的な集団の中の象徴的存在であり、神仏混交とともに多神教的あいまいさの中に包みこまれていた。ヨーロッパでは産業革命で揺れ動いた18世紀、日本は政治による争いを徳川の将軍が長期にわたり抑え込み、安定した時代が続いた。この間に独自の文化をはぐくむとともに、武士道による禁欲的で体制を重んじ、集団指向の国民性を育てた。

千代よろずの神に四方拝

一方、近代科学は長いヨーロッパ中世のキリスト教権による自由は思考の抑圧の反動として誕生した。そして科学は産業を発展させ、ルネッサンスが求める人間の欲望をキリスト教権から解放した。これより唯神論による資本主義は資本家が征服者となり、労働者や植民地民族が奴隷に置き換わった。チップなどという投げ銭を与える習慣はこうした征服の歴史からきている。日本と全く違った精神構造は、唯神教と多神教のそれぞれたどった道の違いである。明治維新は他民族に征服されることなく成功した。西欧の科学を導入し、当面は富国強兵と勧業殖産へと走ったが、精神構造は西欧と同じではない。資本主義も征服者と奴隷という関係ではなく、資本家も労働者も集団となって事業を行う習性がある。ただ将軍や天皇制のような権威主義が尾を引いて、一つの方向にまとまりやすく、ある意味では他国にとっては不気味な存在となる。禁欲的で体裁を重んじる精神的風土は、軍国主義から戦後は経済主義へと走り、公害問題も集団的コンセンサスでこれをクリアーした。

文明と文化の融合―なんとかテクノロジー

要領の悪い混み入った話が続いたので、ここでまた日本人学生J君とアジア佛教国の留学生B君、アラビアの留学生M君のフィクション会話

J:この章は科学技術がキーワードだから、最先端のお話が聞けると思ったのに、大昔の話になってしまった。「科学」はルネッサンスの産物でキリスト教の懐から生まれ、産業革命が求める「技術」のベースになったから、両方が合体して「科学技術」という言葉が生まれたというが、それでいいのかね。

M:それはついこの間の18世紀、いや「科学技術」が本格的に人間の生活に入り込んできたのは20世紀ではないかね。

B:地球環境を脅かすような影響力を持つに至ったのは、長い地球の歴史からみれば、あっと言う間の出来事さ。

M:紀元前のずっと昔の文化から生まれた技術は、鉄にしてもガラスにしても紙にしても、皆いまのアジア、アラビア地域から発祥しているわけだよ。

J:
キリスト教が「科学技術」ならば、仏教は「念仏技術」というわけですか。

B:日本語のお念仏というと空しい感じがするから、「悟り技術」とか「もったいない技術」がいいね。

M:そうすると、回教文化では信仰する教典の名前をとって、「コーラン技術」というのはどうです。

J:儒教国は「論語技術」、いや「儒教技術」かな。日本は「さむらい技術」ということですか。

B:その「さむらい」という言葉にアジアの国では好い感じを持てない人もいますよ。ある韓国の人が言っていました。武士道というのは、もともと儒教をベースにしているが、「忠」の要素が強すぎる。韓国は「孝」の要素が強すぎて、不幸な過去が生まれたのですとね。

M:
北朝鮮は強い「忠」を踏襲しているじゃあないですか。アラビアにもナポレオントラウマというのがありますよ。病的妄想のトラウマではないと思いますが。いずれにしてもヨーロッパ諸国が競って世界を植民地にしようとしていた時に、日本は日露戦争に勝ってこれを阻んだのです。だから私はこうして日本の技術の進めかたを勉強しにきているんだ。

J:日本は海に囲まれているから、他国の文化は1部の人が見てきて伝えたものから自分のものにしました。仏教も元からあった神道と共存し、科学も武士道と共存しているのかな。

B:地球環境を救うのは、『科学技術』だけではなく、『もったいない技術』『コーラン技術』『論語技術』『さむらい技術』の共存でいくのです。

M:
「科学技術」一辺倒は「もうたくさん」ということでしょう。そういえば、1900年にアメリカ特許庁長官だって、「発明はもう沢山あるから、20世紀はこれを使うだけにしよう」と言ったそうじゃあないか。まさに科学技術を恃む先に天国なしだよ。これを使う心の問題、信仰の問題だよ。

(4.3)科学技術はもう主役ではない

欲望の開放」と「滅亡への恐怖」

前の(4.2)節で述べたような、「文明」と「文化」の波を、くどいようであるが、もう一度絵のように「欲望の開放」と「滅亡への恐怖」の繰り返しとして、「科学」が興った近代から眺めてみよう。

ジェイムス・ワットが蒸気機関の研究に没頭していたころ、同じグラスゴー大学を拠点に、経済学の巨星アダム・スミスは1776年に「国富論」を著していた。スミスの思想はフェアな自由競争が経済の法則であり、国を富ます根源であるとした。富は多くの人を働かせ、産業を興し商業を発達させ、社会そのものを活気に満ちて民主的なものにする。富づくりは国づくりであり、さらにそれを基盤に学問や芸術が発展すると説えた。人間は理性の持ち主であるとして、いわゆる「欲望の開放」を肯定した。ただ、欲望の開放といっても、経済の社会では慎重の徳という徳性があり、合理的な計算とあとさきの見通しが求められる。英語の徳(virtue)は力という意味もあり、日本人が連想する儒教や仏教でいうところに道徳と同じではない。英国紳士のバックボーンをなす有徳の人とは、無駄なことをせず状況を的確に把握して行動できる人である。前章の学生の会話で、「われわれはすでに環境を配慮した生活をしているが、それを種に金もうけばかり考えている国がある。」といわせとのもこの辺りからきている。

さて一方、ヨーロッパ大陸の近代化はフランスではイギリスよりも2030年、ドイツはフランスよりさらに2030年おくれて19世紀の初頭にやっと始まったのである。ただし、思想や文学や芸術の上では、18世紀後半から近代化への息吹きは顕著であった。哲学では、産業革命の影響が遅れたドイツで観念論の思想家を輩出させた。特に経済・政治問題に大きき影響を及ぼしたのが、カール・マルクスの「資本論」である。マルクスの思想は財産があり生産や商売を支配するブルジョアジーは、お金もない労働者のプロレタリアートを「滅亡への恐怖」に陥れているとして、団結を呼びかけた。かくして1848年にマルクスはプロレタリア革命を謀ったが、萌芽のうちに摘み取られ資本主義は1850年代のヨーロッパでは天をつく勢いとなった。しかし大量集中的に生産した商品の氾濫と大量の失業をもたらし、資本主義は事故崩壊を起こすというマルクスの予言は的中し、1872年には経済恐慌を経験した。

アメリカンドリームと科学技術

19世紀末の経済恐慌は、植民地というカンフル剤によってこれを立て直すが、20世紀になるとヨーロッパの政治は大きく揺れ動き、第1次世界大戦へと突入する。その大戦によって疲弊したヨーロッパに代わって、アメリカが世界を牛耳る経済大国にのしあがり、キリスト誕生以来最高といわれる繁栄をもたらしたのである。ところが、192910月にニューヨークのウォール街で起きた株の暴落に端を発した世界的経済大恐慌が訪れた。信用銀行のはたん、企業の倒産、そしてアメリカの失業者は千数百万人に達した。これを救ったのがフランクリン・ルーズベルト大統領(1821945)で、イギリスの経済学者ジョン・ケインズ(1852~1946)が提案した理論に基づくニューディール政策の導入である。

ケインズは「有効需要」を政府が人工的に作り出すことを提案した。具体的にはTVAのような巨大なダム建設に伴う地域開発や、ニューヨークの都心に近い方にあるラカディア空港の建設など、公共投資によって失業を救済し、一方では給料を高くして労働者に購買力を持たせて消費需要を拡大させて、大量に生産される商品をさばいた。また労働組合法を制定して、労働者と資本家が対等な立場で交渉する場所を与えた。

この理論は1930年代の経済恐慌を救い、ひとまず資本主義を蘇生させたのであるが、これは地球環境の上からみると、とどめのない生産の拡大と資源の大量消費の始まりであった。

1次世界大戦後、共産主義国家を樹立したと、資本主義経済の主導権を握ったアメリカとの板ばさみになった敗戦国ドイツに、やがてファシズムが生まれる。それは次のような論理である。

ロシアならびにアメリカは形而上学的にみると、平均的な人間の放縦な技術と組織をもたない組織の絶望的狂乱であるとし、さらに民主主義、自由主義の放縦さ軽薄さを批判した。そしてギリシャ精神を純粋に引き継いだゲルマン民族であるという思想をかざしてナチズムが台頭した。

さむらい日本の科学技術

日本もドイツ同様、資本主義拡大のクッションとなった植民地の進出に遅れをとっていた。そして日本は外国から侵略を受けたことがない優れた単一民族で、万世一系の天皇を頂く万邦無比の国体を保有しているとして、ヨーロッパのファシズム国ドイツとイタリアに同調したが、敗戦という悲惨な結果を迎えた。

一方、第2次世界大戦は有色人種の国日本が侵略者であったことに誘発されて、戦争が終わると植民地の民族独立運動を抑えることはできなかった。ファシズムの嵐のあと、資本主義国の植民地は音を立てて崩れ落ち、民族問題が残された。植民地国家の独立によって、白人を中心とする宗主国の政治的策略、搾取抑圧の時代が去ったあと、経済が優先し、今度は先進工業国の勝因が世界を席巻し、先進国と発展途上国という不安定な重構造が生まれた。

そして皮肉なことに負けた日本とドイツがその先陣を切っているのである。その結果、再び果てしない資源乱費の構図が拡大している。植民地搾取と征服の目標を失った資本主義は、今度は地球の資源に猛烈にむしゃぶりつき始めた。地球が悲鳴を上げたのは、このような歴史の必然であった。

いずれにしても、ファシズムは鳴りをひそめたが、その後の経済活動は自由主義の放縦で軽薄という見解とともに、地球環境という対場から、「欲望の開放」を見直さねばならない。そして「滅亡への恐怖」として地球環境という自然が立ちはだかってきたのである。

フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』という本がある。ドイツはナポレオンによって席巻されて、やがてビスマルクがドイツを連邦国家へと統一して巻き返した頃の思想である。フィヒテはそこで、人間の歴史を5段階に分けた。すなわち前史時代の自然が支配する段階、次に獣から人間となって神が支配する段階、それから国家が支配し、次は経済となり、やがては芸術に精神をゆだねるであろうというのである。18世紀から20世紀はまさに国家という政治の枠組みに大きく揺り動かされた時代といえよう。

日本では岩倉具視、大久保利通、木戸孝允ら明治維新政府首脳が大使節団を編成して、幕府が結んだ不平等条約の改正打診と西洋文明の視察を目的に欧米に出かけたのは1871年(明4)であった。この時一行は誕生したばかりのドイツ帝国宰相ビスマルクと会見している。そこでビスマルクは大国は武力によって小国を意のままにすることができるという国家観を伝えたという。この使節団がイギリスを訪問中に依頼して、推薦されて来日したのが、工部大学校を立ち上げたヘンリー・ダイアであった。日本政府は若きヘンリー・ダイアの理想をよそにそれから勧業殖産とともに富国強兵へと走り、彼の予言どおり1945年には敗戦によって大きな代償を払う結末となったのである。

その時代が終わると、まさにヒフィティの予言どおり経済の時代へと突入した。その結果みえてきたのは、芸術という理想郷ではなく、もとに戻って地球環境という自然への恐怖であった。科学技術に恃んで拓いた真理の扉の向こう側にも究極の天国はなかった。このことはヘンリー・ダイアも見抜いていた。拓いた真理を知識として生かすのは文化にかかわる問題である。そして地球上には多様な文化が存在する。キリスト教の懐から生まれた「科学技術」だけでなく、「さむらい技術」、「論語技術」「もったいない技術」、「コーラン技術」もある。地球環境問題を協議するには、多様な文化の互恵容認が不可欠である。そこで次に、共産党宣言と太平洋戦争で特攻隊が残した言葉を擬文化してエピソードを2つばかり加えよう。

地球環境という「滅亡への恐怖」
ポストマルキシズム

「社会の物質的生産書力はその発展がある段階に達すると、その中で動いてきた既存の生産諸関係、あるいは法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾することになる

これらの諸関係は生産諸力の発展諸形態からその制約へと一変する。そのとき社会革命の時期が始まる。・・・・支配階級をして共産党革命の前に戦慄せしめよ。プロレタリア革命において鉄鎖の中に失うべきものは何もない。彼らは世界を獲得しなければならない。万国のプロレタリアートは団結せよ。・・・・もはやどのような機械利用の発展も、どのような科学的発展も、どのような科学の生産への応用も、どのような交通機関の改善も、どのような市場開発も、またこれらを束にしたところで、労働大衆の窮乏を救うことはできない。いなむしろ現在のあやまった基盤の上では、労働生産力のどのような新しい発展も、すべて社会的隔壁をはなはだしくし、社会的対立を鋭くする働きをせざるを得ない。・・・・資本はその内から自ら有用とする労力を採用し、無用とする人口を切り捨てるのである。このメカニズムの結果、資本の蓄積が大きくなればなるほど、そして恐慌が大きくなればなるほど過剰人口は大きくなる。」

これを地球環境問題におきかえると、次のようになる。

「科学技術によってもたらされる便益を、ほしいままの欲望にまかせて資源を乱費する文明の中にうごめく民族は・・・・やがて限りある資源の消費をめぐって既存の生産諸関係、あるいは法的表現にすぎない所有関係と矛盾するようになる。・・・・もはやどのような科学の発展も、どのような科学の生産への応用も、どのような地球環境の改善技術も、どのような省資源・省エネルギー技術も、またこれを束にしてみたところで、資源多消費民族のこのような行き詰まりを救うことはできない。・・・・今や資源乱費民族をして、ポスト・マルキシズム宣言の前に戦慄せしめよ。そして資源乱費民族の倒壊、資源微消費民族の支配、軽薄な欲望の横行する古い資源乱費社会の廃止、および放縦な資源乱費のない社会を目指し、万国の微資源消費民族よ団結せよ。」

文明の興亡を見据えた特攻隊出撃前の言葉

「破滅への恐怖」というテーマによせて、太平洋戦争に狩り出されて犠牲になった若者が残した言葉を紹介しよう。日本の繁栄を信じながら自らの犠牲に慰めを求めて散っていった、『聞けわだつみのこえ』の中につぎのような一文がある。

特別攻撃隊の像

『権力主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です。われわれはその真理を、今次世界大戦の枢軸国家(日、独、伊)において見ることができると思います。・・・・・このことはあるいは祖国にとって恐るべきことであるかも知れませんが、吾人にとっては嬉しい限りです。・・・・愛する祖国日本をして、かっての大英帝国のごとき大帝国たらしめんとする私の野望は、ついに空しくなりました。
・・・・空の特攻隊のパイロットは1器械にすぎぬとされ・・・・何もいう権利はありませんが、ただ願わくば愛する日本を偉大ならしめんことを、国民のかたがたにお願いするのみです。』

1945511日、沖縄戦の特攻隊で戦死した22歳の慶応大学経済学部学生が残した言葉である。

この声を現在の地球環境問題に置き換えると次のようになる。

「欲望を欲しいままにした文明は一時的に隆盛であろうとも、必ずや最後には滅びることは明白な事実です。我々はその真理を歴史の流れにおいてみることができます。ローマ帝国の崩壊も帝国主義の横暴も、ほしいままなる欲望の跋扈(バッコ)によって滅びたのであります。真理の普遍さには今襲いつつある地球環境異変をもたらした文明にも見ることができます。その文明にあずかる先進文明国にとってはおそるべきことかも知れませんが、・・・・その存続を危うくしてことは眼前にして明白であります。・・・・ただ願わくば愛する地球に、そこから新しい秩序と多様な文明が共存し、再び調和ある麗しい人間が躍動することをお願いするのみです。過激にわたり胸中を告白したことをお許しください。」

すりかえてみると、原文とはほど遠い嘲笑的なものとなり、原作者の御魂に申しわけない。しかし、地球環境問題に対するきつい警鐘として省みるのは無駄ではないであろう。

赤提灯で地球環境戦争の行方を語る

Y:この代々樹壱咲も、(4.2)、(4.3)と馴れない歴史の話でいささか疲れました。今日は渋谷の赤提灯で、こうして大山義年先生(初代国立環境研究所長:1903-1977)にお目にかかれましたので、迷いのほどをいろいろ聞いていただきたいと思います。

O:何か私が創立したばかりの公害研究所の所長を引き受けたときのテレビのインタービューのことを書いていたようだね。

Y:あれは§3でしたか。公害の規制値を決めるためには科学的根拠に基づかなければならない。天神様のお告げのようなわけにはいかない。確りとした基礎研究によって根拠を固めるには時間がかかるという先生のお考えを、西洋と東洋の思想について「掟における煩悩と戒律」「法律における罪と罰」というキーワードで説明してみました。

O:公害の規制値であれば、排水の中に環境汚物質がどこまで少なくすればよいかという数値を、国が1つに決めるということだから、はっきりした根拠を作って科学的に決めるしか他にないわけでしょう。

Y:それは各地方によって、もっと厳しい数値を上乗せするという余地も与えていますね。

O:地方に自治権を与えるということは、アメリカなどは日本よりもっと自由にやっているわけだから、そこは一神教だとか多神教だからというのが根拠ではないでしょう。地球環境ということになれば、お互いの文化を尊重しなければならないが、どれか1つにしなければならないわけで、この場合は科学的根拠という文化で足並みを揃えるべきですね。

Y:あれは確か1970年代でしたね。私が勤めていた当時の通産省では日米貿易摩擦というのが大きな課題となっていました。センイに次いでカラーテレビ、自動車、半導体などを輸入制限する一方、医薬、オレンジ、牛肉などの市場開放を求めてきました。それから、研究開発については、日本は基礎研究を只乗りして、技術的成果だけをむさぼっていると批判されました。

O:私が公害研究所の所長をお引き受けしたのは、東工大学長退任してしばらく後の1974年でした。Y君の言うとおり、あの頃は基礎研究重視という政府のかけ声がかかり、国立研究所では、その筋の予算は通りやすかったですね。

Y:私もいろいろなナショナルプロジェクトに関連して、基礎研究を自前で築きあげながら技術開発をするという筋書きで進めていました。それがなかなか国立研究所だけでは基礎研究がこなせないということで、先生の大学にも協力のお願いに行ったことを思い出します。

O:なにか一生懸命格好をつけていたようだったね。あの頃は未だ日本は1人前の科学技術先進国とは国際的に認められていなかった。

Y:私には認めようとしないように受け取れました。日本人は物真似上手のモンキー民族などといわれていましたよ。基礎研究只乗り論というのは、科学に対する欧米と日本の思想の違いからきたものと思うのですが、いつの間にかその声は消え去って今や日本は押しも押されもせぬ科学技術先進国だと、誰もが思うようになっています。

O:しかし、そうした議論の経緯は忘れないほうがいいですね。君のフィヒテの話は面白いと思いますよ。自然が支配する時代から、これを克服して宗教が生まれ人が自然の動物と違う存在となって神が支配し、それから地域の文化がぶつかり合って政治が支配する時代となり、産業革命によって物が豊富になって経済が支配する、そうして生活が豊かになれば好きなことができて芸術が支配する。フィヒテの時代は普仏戦争でドイツが戦場になった頃で、まさに政治に翻弄された時代だったから、次は経済、そして芸術という予言は正しかったわけですよ。

Y:そこから先は一神教が目指す天国が待っているという筋書きのようです。この章の口絵で詠んでいるように、恃んで拓いた果てに天国なしです。

O:さあどうかね。ものはもっとよく考えてから言わないと。

歴史はまわる

Y:ここは赤提灯ですから勝手に言わせていただきますと、現代はすでに芸術が支配する時代に入っている。「科学」が神の栄光と受け留めるならば、芸術と同じ人の精神活動といえるからです。しかし、科学技術文明が発達して人間の欲望が開放された結果、地球環境に異変が起こり始めた。これはとりもなおさず「自然への恐怖」です。科学、芸術が支配する世の中の次は天国ではなく、もう一度めぐり巡って「自然」と向き合うことになったのです。思い起こせば2005年の愛知万博は「自然の叡智の学ぶ愛・地球博」というキャッチフレーズでした。つまり、フィヒテの5つの階段は絵のように輪を描くのですよ。そして、自然は支配するものではなく、「叡智に学ぶ」というのが大事なところです。その次は「神」となっていますが、これも支配ではなく、いたずらに科学技術の振り回されない「精神」と置き換えれば、まさにこれから求められようとしていることではないでしょうか。「科学技術はもうたくさん」で、これからはこれを上手に使いこなす「悟りある心」の時代を迎えようとしているのです。

O:やれやれ、長い長い百題目でお疲れさまでした。科学技術が社会で大いに役立っている間は、その限界もマイナスの面もあまり考えなくてもよかったのです。しかし、社会が成熟し、人々の必要なものが満たされてしまうと、科学技術のマイナス面にも目が向けられ、干渉もするようになってきましたね。しかしそれは謙虚に進んで耳を傾けるべきでしょう。「科学技術は両刃の剣」とか、せいぜい「科学技術はもう主役ではない」くらいにしたらどうですか。

Y:分かりました。それでは次に科学技術とは一見もっともっと無縁な、「豊かさ」と「幸せ」について考えてみたいと思います。

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